村上市泉町には1928年に77戸の部落があったとされる。
『埼玉県,山梨県,新潟県での現地研修記』 には次の記述がある。
村上市も城下町であり鮭漁で有名な三面川でよく知られている。7月13日の午前、その三面川の左岸のⅠ町を訪ねる。堤防の下の密集しているこの町には歩いてみると土建業が多い。ここは地区指定されていない。人権擁護委員のYさん宅へお邪魔する。元中学校長だったこの人はゆっくりと適切に説明して下さる。村上は士族町と町人町に分かれていて学校が一緒になったのは第2次大戦後だというから驚く。このことから察せられるように村上の風土は古い。そういうなかでは部落の人自体がふれたがらない雰囲気が強い。このⅠ町もそうである。ここでは年配の人は土建業が多く若い人は公務員志望が強い。最近は村上市にも工場か進出してきて働き口がふえている。Ⅰ町には鮭とり、鮎とりの上手な人が多い。すぐ後ろの堤防に上ってみると鮎を釣っている人の姿がみられる。
ところが三面川の漁業権はずっと士族のものだった。解放されたのはこれも戦後の漁業制度改革によってである。士族の特権が保持されてきた村上ではどの部落も未指定なのはうなずける。芸能としての「大黒舞」はⅠ町に3、4人上手な人がいた。これは山形のほうから伝わったという。この芸能も発生的には「門付け」と思われていて、もう伝える人はいない。Yさんは人権擁護委員としてよく講演を頼まれるが部落問題だけをとりあげることはしない。Yさんは今後の問題として部落の人がもっと勉学意欲を持ってほしいといわれる。
このI町こそが泉町だ。ここは同和地区としての扱いはされなかったと考えられる。
ここが泉町の交差点。当然ながら、部落とは見た目では分からない。
最初に目についたのが立正団会館という建物。
そこに泉町の由緒が書かれている。「萱場」「土居下」「新加賀町」「泉町」と名前が変遷してきたという。
隣の公民館の前に神輿が。聞いてみると、昨日のこの辺りで祭りがあったそうで、片付けているところだそうだ。泉町だけでなく周辺の地区からそれぞれ神輿が出ており、少なくとも神社の祭礼については差別はないように見える。
泉町は三面川の堤防のすぐ下にある。文字通り土居下にあるわけだ。三面川では多数の鮎釣りをする人がいた。
この道路は堤防の上にあるのだが、それに沿うように建っている家もある。
このように2階が堤防道路に接している。
これは土居下稲荷神社の跡地。昭和50年までここにあったのが、移設されたということである。ということは、それまでは堤防はもっと外側にあったと考えられる。
融雪パイプが埋められた住宅地の中を歩く。
記録にある通り、たしかに土建業者がいくつか見られる。職業については湯の沢と共通したところがあるかも知れない。
これが移設後の稲荷神社。
細い道はこれくらいで、空き地・廃墟はあまり見られない。何か期待して訪れた方には物足りないかも知れないが、ここは完全に解放された部落であろう。
和歌山市の芦原地区を探訪していただけないでしょうか。近ごろ、金井克諭暉こと金正則容疑者の事件があった地区です。長谷川三郎の妻の実家も多分ここでしょう。
探訪いたしました
京都市内も探索して欲しいです。京都駅から南側、桂川を南に下りながらの街並みを希望します。
京都市の久世地区のことでしょうか?
現村上市市長が、この泉町出身なんだよなぁ〜