多摩カントリークラブのそばには部落がある。最寄り駅は京王若葉台、小田急はるひ野、あるいは京王聖蹟桜ヶ丘駅からも何とか来られるかも知れない。部落名は「船ヶ台」で、1935年の世帯数は48,人口は324だったとされる。
この部落にも、関東の部落にはよく見られる白山神社がある。ここから探訪を始めた。
非常に立派な白山神社で、この部落には何というか“財力”を感じる。
白山神社の境内と周囲をパノラマ撮影した。神社には入り口の鳥居が2つあり、1つはゴルフ場側の広い道路に面しており、もう1つは周囲に畑がある細い道に面している。
境内にある、むくの大木。多摩市内では最大のものだという。
現在の社殿は1995年に再建されたもののようである。寄進者の一覧を見ると、部落内の寄進者のほとんどは長澤、萩原という名字だ。
部落内には畑もあるが、ほとんどは住宅地で、しかも新しくて立派な家が多い。
部落の真ん中あたりに墓地がある。これらの墓石もほとんどが長澤か萩原。墓石からは浄土真宗のように見える。
墓地の隣には「称名寺 檀信徒会館」という建物がある。そこで聞いてみると、この墓地はほとんど時宗の檀徒のものなのだという。時宗は浄土真宗と同じく浄土宗から派生した宗派だ。
もともとこの地は国立駅前にある時宗の寺、称名寺の檀徒が多かったという。墓もそこにあるのだが、称名寺の墓地が足りなくなったため、ここに墓地を新設したのだという。墓地のほとんどは称名寺のものだが、一部は地区の一般の共同墓地になっており、そこは他の宗派の墓もある。檀信徒会館は墓地の新設に伴って1998年に作られたもので、これが出来たことで部落の檀徒は遠くにある称名寺まで行かなくても、ここで法事等を行えるようになった。
船ヶ台は昔は非常に貧乏な農村だった。しかし、京王線や小田急線の駅ができ、交通の便がよくなると、農地は住宅地として価値を持つようになり、貧乏な農家は地主となった。今はご覧の通りで、裕福な住民が多いという。
こちらが府中駅前の称名寺。称名寺と言えば、是政2丁目の部落の墓地の記念碑にも称名寺の名前があった。どうも、府中、多摩、稲城の部落はどれも称名寺の檀徒のようなのだ。なぜこの辺りに称名寺の檀徒が多いのか僧侶に聞いてみたが、理由は分からないということだった。また、船ヶ台に関しては今では新しい住民が多く、住民の大部分が称名寺の檀徒というわけではないという。
このように、キリスト教会もある。
もちろん、掲示物に部落だの同和だのといったものはない。
これは「光地蔵尊」。昭和の頃に出土したもので、「連光寺の衆生に地蔵尊の徳が隈なく行き渡るよう」に、当時の称名寺の住職が名付けたという。あくまで「連光寺」の光であって、「熱と光」の光ではないと思う。
地区の集会所。ここからの眺めは良い。
こちらは小さな公園。「船ヶ台」の名を留める、数少ない物件だ。
記事中「塔婆のある墓石の写真」説明に「墓石からは浄土真宗のように見える。」とあったのでコメントさせて頂きます。
墓石で宗派を判断する場合、墓石本体の裏側に「塔婆」「塔婆立て(塔婆を立てる金属部材)」が無ければほぼ確実に「浄土真宗」の墓石です。
浄土真宗だけが塔婆を立てません。
浄土真宗には塔婆による「追善供養」という考えが無いからだそうです。
取材の際、墓地敷地内に入れない場合には、これで判断するのが簡単かと思います。
ただし、神道やキリスト教、創◯学会の墓石にも「塔婆」がありませんので注意が必要です。
恥ずかしながら、私は部落探訪して部落の寺院を訪れるまでは、仏教の宗派の違いをよく知りませんでした。
今でも浄土宗系は南無阿弥陀仏、日蓮宗は南妙法蓮華経、真言宗は南無大師遍照金剛くらいの知識しかありません。
ぜひご鞭撻を頂ければと思います。
ループ氏の実家は真宗大谷派の門徒でしたっけ?
下味野には臨済宗妙心寺派の寺しか見当たりませんが…
関東は日蓮宗と時宗で二分されてるんですかね?
関東では元々真宗の寺が少ないってのも関係してるかも知れませんが
特に群馬なんて明治に入るまで真宗の寺が一軒もなかったといわれるくらい真宗不毛の地ですし
うちは黒住教ですよ。
永楽寺はほとんど廃寺になっています。
地図を見ると分かりますが、旧因幡国は寺が少なく、大きな寺もほとんどないです。
私に限らず神道が多くて、仏壇がある家は少なかったです。
ただし、部落は真宗大谷派が多くて、緑浄寺に集約されています。
あまり調べてみたことはないですが、池田光政がそういう政策をとったことが原因のようです。
永楽寺は筧雄平という方が明治18年に個人で建立した寺で下味野の檀家寺ではないみたいですね。
江戸時代の下味野には檀家寺はなく他村の寺の檀家になっていたといことでしょうかね?
部落も百姓も縁も所縁もない土地の寺の檀家になっていたのは藩の宗教政策の影響でしょうか?
檀家寺が村内になければ檀家寺との関係も希薄になり黒住教などの新宗教に移りやすい土壌になりますね。
下味野でも旧赤池の部落は昔から緑浄寺の檀家で間違いないです。
旧本村はどうだったのかよく分かりません。
旧本村の墓地にある古い墓の写真があるので、これから何か分かるかも知れません。
音野さんの言っていることを参考に下味野本村の墓を見ると、昔から一定の宗派に属していなかったような感じがします。
1枚目の写真の墓なんて、浄土真宗と浄土宗の檀徒が1つの墓に同居しているように見えませんか?
2枚目の写真には、日蓮宗の墓が混じっているように見えます。
おそらく、昔から神社が中心で、寺との関係が希薄で、葬式の時だけ思い思いの寺に頼んでいたのではないかと思います。
特定の寺に属さない地域もあるんですね。
参考になりました。
因みに篠田と朝月も旧本村同様に神道中心なんでしょうか?
旧本村と旧赤池に同名の神社がありますが何か関係があったりしますか?
篠田は知りませんが、朝月も神社中心じゃないでしょうか。
あそこも特定の寺の檀家ではないと思います。
下味野の2つの神社は同じ名前ですが互いに何の関係もありません。
確か旧赤池の下味野神社は昔からあるものではなくて、明治か大正以降に作られたものだったと思います。
旧赤池には明治以降に他地域から移り住んだ住民も多くいるとのことですが、部落に出自を持たない移住者も緑浄寺の門徒となっているのでしょうか?
それとも新宗教やキリスト教などを信仰しているのでしょうか?
墓地も別々だったりするのでしょうか?
昔からの住民が緑浄寺なのは間違いないですが、比較的新しい時代の住民はどうなのかというのは検証してみたことがありません。
私が思い浮かぶところでは、キリスト教というのは聞いたことがなくて、大本系の新宗教の信者や、創価学会でしょうか。
近代の部落の移住者には他地域の流れ者に混じってサンカ(山窩)もいたんじゃないかと思いますね。
https://twitter.com/burakunokurasi/status/1017070798396256257
非定性の漂泊民として賎視されていた人びとが、気やすく出入りすることができたのは、やはり被差別部落だった
https://onmymind.exblog.jp/26683266/
http://d.hatena.ne.jp/stonedlove/20081204/1228354519
http://gendainoriron.jp/vol.06/rostrum/ro01.php
> 尾道市に住む公務員、Sさん(当時59)は懐かしそうに語り出した。両親は、大正時代に被差別部落内にできた「融和」住宅に入って定住。川魚漁と棕櫚箒づくりを生業としている父母の姿に、尊敬の念をもちながらも、恥かしく感じながら生きてきたという。
> 「地区内でも『もん』とか『サンカホイト』と差別された。いったい自分は何者なのか、なぜ差別を受けるのか。中学のころから、何をしていいのか分からなくて、暴れていましたよ」
> 彼らは明治初期から次第に被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったというのである。
同時にサンカ(山窩)は犯罪集団として見られていたとも。
https://twitter.com/jackiemito/status/610363614143197184
https://twitter.com/jackiemito/status/486156143245275137
https://twitter.com/jackiemito/status/582731043712602113
https://twitter.com/jackiemito/status/529086927060729856
https://twitter.com/kuroda_osafune/status/287883053337030656
https://twitter.com/soukouhouki/status/502294124637069313
https://twitter.com/maomaoshitai/status/406095886519771136
『全國部落調査』には茨城県や広島県のサンカ部落が載っていますね。
そういった地区の探訪記も読んでみたいです。
具体的にどこのことでしょう? 不勉強なので、関連文献などご紹介頂ければと思います。
上の方のコメントのように、真宗だけ多宗派と比べお墓の違いが多いです。
・「〇〇家之墓」や「先祖代々」といった文字が墓石の正面に刻まれることはあまり好まれないです。
・五輪塔や卒塔婆は建てられません。
・線香は横向きにお供えします。
・法名に釈(尼)〇〇とつける。居士などといった尊称はない。
ほかの宗派はあまり知りません。
たぶん墓石の形などであまり違いはないと思います。
比較するなら文字ですね。
天台宗とか真言宗、浄土宗の一部では梵字を入れると思います。
あと真言宗なら南無大師遍照金剛と入れたり、
日蓮宗は南無妙法蓮華経の文字を入れる。
禅宗系は墓石に円相や南無釈迦牟尼仏を入れる。
有難うございます。できましたら、部落探訪で出てくる墓の写真をいろいろと鑑定して頂けると助かります。
「清めの塩」も使いませんよね?
浄土真宗では「死=穢れ」という考え方は否定されるみたいです。
府中称名寺はたしか川崎市麻生区早野の路地も檀家でしたね。
そうなのですか? これ、早野の墓地の写真ですが、どの辺りから鑑定すればよいでしょう。
昔、茅葺き屋根の家があった裏の墓地でしょうか。私も墓は漁ったことはありませんが、杉本家辺りが檀家なのではないでしょうか。練馬の杉本家との関係はわかりませんが、あそこも白山神社と時宗寺院が隣り合った路地ですよね。
はい、藁葺き屋根があった集落の裏山の竹やぶの中です。杉本は少ないですが、矢のつく名字が地元のようです。
練馬の杉本家と支配は真宗単立寺院の長源寺。
日蓮宗の墓があるね。
練馬の時宗は明治以降。
練馬は家光以降は真言宗の寺しかなかった。
矢の付く名字は本田豊が早野で新田義貞に従軍した時に矢が降ってきたことから命名されたと聞いたとの由。まあ早野の府中称名寺檀家云々も彼の著書にあったものですが、ゼロから洗い直した方がよさそうですね。