曲輪クエスト(392) 四日市市日永

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By 宮部 龍彦

四日市市で最後に訪れたのは、日永である。明治初期の記録では2戸11人の小さな古村であった。それが昭和初期には12戸に増えていた。さらに2000年頃には50戸まで増えていたとされる。

四日市の古村は全般に豊かであったと記録にはあるが、日永については生活程度が低かったとされる。最初期の2戸はいずれも草履作りなどの職人、後に1軒だけ農業をしていたとされる。

このアップルの看板を目印に現地へ向かう。

指定同和地区なので、『四日市の部落史』に詳細が書かれている。前出の明治初期に2戸というのは、『三重県部落史料集(近代篇)』 掲載の「壬申戸籍調査集計表」による。『四日市の部落史』にも、「もともとこのムラは、現在の居住者の家の系譜をさかのぼると二軒の家から分かれていったことが明らかで、ムラ中が家族同様というのは言葉の上だけではなく事実を指しているといってよい。余談ながら、現在五〇戸ほどになっているこのムラの人口増加はその系譜をたどっていくと、自然増であることは明らかである」と書かれている。

江戸時代の明細帳には「ひにん」「番太」の記載があった。ただし、ほとんど史料が残っておらず、明治初期の2軒それぞれが「ひにん」「番太」に対応するのかどうかは分からない。

『四日市の部落史』によれば「増山英一をリーダーとして、市域のなかでは最も早く解放運動に目覚めたムラであった」とある。そして、川尻姓の人名が多く出てくる。『三重県部落史料集(近代篇)』によれば古村の名前自体が川尻という記載もある。

名字の分布を分析したが、電話帳で増山は確認できない。1960年代の航空写真では日永の本村から少し離れた田んぼに囲まれた小さな村であったことが分かる。日永本村の中を通っている道は東海道だ。

前出の増山英一は1975年に当選した四日市市議会議員である。この頃、改良事業が推進された。ここにある改良住宅は、まさにその時期によく作られた形式のものだ。

1979年には部落解放同盟日永支部が結成された。ただ、日永では全日本同和会の支部も結成されていたという。

もとは一面の田畑だったが、1970年代後半以降に改良と都市化が進み、今では民間のアパートの間に同和施設があるような状態になっている。

この村では戦前に融和事業や水平社運動について特筆すべき動きは見られない。日進工業の工員に川尻という共産党員の活動家がいたという記録はあるが、水平社との関係は不明である。

もっぱら活動が活発になったのは戦後の同和対策事業の時代であり、しかも前出の通り1970年代中盤からなので、とりわけ早い時期から活動があったわけではない。「市域のなかでは最も早く解放運動に目覚めた」とあったが、寺方の方が早かった可能性もある。

町内には人権や同和に関する掲示物は見られない。

そう思ったが、この「人権プラザ天白」は同和施設であることを強く主張していた。これは教育集会所である。隣保館という扱いではないのは、設置時に隣保館の設置要件(50世帯)を満たす戸数がなかったためか。

住宅の新しさから見て、新しい住宅が次々と建つようになったのは、ほんのここ10年以内ではないか。実際、ストリートビューで時間を巻き戻すと、古い家や空き地が次々と新しい豪邸に変わっている。

全国部落調査が差別を助長するという言説は的外れである。

国道1号線沿いなので、ロードサイドの商業施設が多く、保育所のような施設が充実していることも相まって移住者が増えているようだ。

なお、寺は真宗高田派の興正寺、神社は大宮神明社。いずれも、特に古村の寺というわけではなくて、本村も含めた日永地域一帯の寺社である。

これは天白東会館で、人権プラザ天白の関連施設とされている。もとは小さな地区のはずだが、他に児童集会所が3つもある。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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