個人情報保護委員会は特高警察!?
改正法で最も影響が大きい変更として知られているのが、いわゆる「5000件要件」の撤廃である。これからは、個人情報が1件だろうと「個人情報取扱事業者」に該当し得るということだ。すると、「町内会は個人情報保護法の規制対象ではない」という従来の説明はもはや通用しなくなる。個人情報保護委員会の担当者は「町内会のような団体も規制対象になる」と明言している。まさに過剰反応が過剰反応でなくなってしまったわけである。
今では、町内会だけでなく、草の根のサークル活動のようなものや、今まで多数の顧客情報を扱うことのなかった個人商店のようなところも、ことごとく法律の規制対象に加わっているのである。そのような団体が個人情報保護法を遵守しようとしても、大企業とは違って顧問弁護士が付いているわけでもない。
個人情報保護法の規制対象は桁違いに増えたし、しかも新たに規制対象となる人の多くは個人情報保護法を理解していないのが実情だ。今まで以上に「過剰反応」が増えるだろうし、逆に違法状態が頻発しても、それらを行政が把握することは不可能と考えられる。そこで、考えられるのはますます個人情報保護法が「ザル法」化することだ。
個人情報保護法による、個人情報の開示、訂正、削除、第3者提供といった手続きは既に複雑なものであるが、改正法では、さらに第3提供を行う場合は記録を残すことが義務付けられた。果たして、どれだけの事業者がこれを忠実に実行するだろうか。
また、改正法が審議されていた2014年7にベネッセ個人情報流出事件があったため、付け焼刃的に罰則が追加された。事業者が不正な利益を得る目的で個人情報を他人に提供すると、1年以下の懲役又は50万円以下の罰金というものである。これで「個人情報を漏洩すると逮捕される」という「法律の印象」が現実のものになったわけだ。しかし、ベネッセ個人情報流出事件には、より罰則の重い不正競争防止法が適用されており、より犯人に重い刑罰を科そうとする検察・警察にしてみれば、今度全く同じ事案が起きた時に不正競争防止法よりも刑が軽い個人情報保護法を適用する理由はない。従って、この罰則はベネッセ個人情報流出事件とは違うケースに適用されることが予想される。
さきほどから度々言及している「個人情報保護委員会」は、2016年1月1日に内閣府の外局として設置された行政機関である。旧法では個人情報保護法は消費者庁が所管し、実際の運用は「主務大臣」が行うことになってきたのだが、改正法では個人情報保護委員会に権限を集中させることになった。
個人情報保護委員会について説明する前に、予備知識として知っていただきたいことがある。
2002年以降に何度も物議を醸し、何度か国会に提出する度に廃案となった、いわゆる「人権擁護法案」あるいは「人権救済法案」という法案があった。れは、「人権委員会」を設置し、人権侵害あるいはその疑いのある事案について、委員会が強制力をもって調査し、必要に応じて国民に指導、啓発を行うといったものだった。しかし、各方面から激しい反対にあい、結局実現することはなかった。鳥取県に至っては2005年10月に国に先立って、同様の内容の「人権救済条例」を制定したものの、県内外から激しい反対運動が起き、結局条例は施行されないまま廃止されるという異例の事態となった。
なぜ、人権擁護法案が批判を浴びたのかというと、次の理由が挙げられる。
根本的な問題として、憲法が定める基本的人権というものは、国が国民に対して保障するものであって、国民同士に互いに守らせるといった性質のものではない。しかし。人権擁護法案は、国民が人権を侵害しないように、国が国民を監視するという、本来の人権の概念とは全く逆のものだった。当時は刑務所における受刑者に対する虐待が問題となっており、本来、人権擁護というのは国の機関がそのような行為を行わないように監視する仕組みを作ることではないのかと弁護士会等から批判の声が上がった。
もう1つの問題は、「人権侵害」の定義が非常に曖昧であることだ。法律の内容も人権侵害とは人権を侵害する行為である…といったような循環定義になっていたため、これでは定義したことにならないとの批判があった。とにかく、誰かにとって都合の悪いことであれば、何でも人権侵害ということになってしまうのではないかという危惧があった。
そして、「人権委員会」が強権的すぎることだ。人権侵害のおそれがあれば、人権委員会には調査、あるいは関係者の出頭を求める権限があり、これに応じない者には30万円の過料を課すとされた。これは、国の機関が国民に対して捜索や押収を行うには裁判所の令状を必要とするとした、憲法35条に違反するのではないかという批判があった。
実は、個人情報保護委員会は、その人権委員会や人権救済推進委員会並みの強い権限を持っている。しかし、不思議な事に改正法が制定された時に、この点はほとんど話題にならなかった。これは何か利権や陰謀が働いているという訳ではなく、「個人情報保護」という大義名分の前に、世論が思考停止しているということだろう。
法律上、個人情報保護委員会は「特高警察」と批判された人権委員会と同じか、それ以上の権限を持っている。改正法には次の定めがある。
(報告及び立入検査)
第四十条 個人情報保護委員会は、前二節及びこの節の規定の施行に必要な限度において、個人情報取扱事業者又は匿名加工情報取扱事業者(以下「個人情報取扱事業者等」という。)に対し、個人情報又は匿名加工情報(以下「個人情報等」という。)の取扱いに関し、必要な報告若しくは資料の提出を求め、又はその職員に、当該個人情報取扱事業者等の事務所その他必要な場所に立ち入らせ、個人情報等の取扱いに関し質問させ、若しくは帳簿書類その他の物件を検査させることができる。
つまり、何らかの事件があったわけでもなく、裁判所から令状が発せられたわけでもないのに関わらず、個人情報保護委員会は個人情報取扱事業者に対して立ち入り調査を行うことができるのである。前述の通り、改正法では個人情報取扱事業者の範囲が格段に広げられたので、法律上は個人商店だろうと町内会だろうと労働組合だろうと、個人情報保護委員会が立ち入り調査できるというわけだ。
もし、この調査を拒めば罰金30万円である。
ちなみに、人権委員会の場合、立ち入り調査は「不当な差別的取扱い」のような具体的な事案があった場合に限られ、調査を拒んだ場合の罰則は罰金ではなく「過料」30万円であった。罰金は刑罰なので前科となる対して、過料は刑罰という扱いではないので前科にはならない。これと比較しても、個人情報保護委員会の権限がいかに強大か理解できるだろう。
そのため、改正法には、次の定めがある。
(個人情報保護委員会の権限の行使の制限)
第四十三条 個人情報保護委員会は、前三条の規定により個人情報取扱事業者等に対し報告若しくは資料の提出の要求、立入検査、指導、助言、勧告又は命令を行うに当たっては、表現の自由、学問の自由、信教の自由及び政治活動の自由を妨げてはならない。
さきほど「そのため」と書いたのは、個人情報保護委員会は国民の基本的人権を侵害しかねないほどの力を持っているので、わざわざ法律にこのように明記しなければならなかったということである。決して「法律に書いているから安心」ということではなく、立法した側もそれだけ危険なものであることを自覚しているということだ。
また、ご承知の通り、憲法が国民に保証している基本的人権は「表現の自由、学問の自由、信教の自由及び政治活動の自由」だけではない。法の下の平等、思想・良心の自由、労働三権、住居の不可侵といったものも基本的人権なのだが、それらはあえて明示されていない。
そもそも個人情報保護法は個人の「人格権」を守るためである。しかし、「人格権」は憲法には明示されておらず、13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(いわゆる「幸福追求権」)から派生したものとされる。
しかし、個人情報保護法には幸福追求権などということは一言も触れられていない。そもそも、国家機関が令状なしに、個人の住居も含むあらゆる場所に立ち入り調査できるという時点で、憲法に定められた多くの基本的人権を侵害することは明らかである。そこまで、「個人情報」というのは他の人権に比べて重要なものだろうか。例えるなら「健康のためなら死んでもいい」とでも言っているような、狂気を感じるのは筆者だけだろうか。
さらに、「マイナンバー法」に定められた個人情報保護委員会の権限はもっと強力で、マイナンバーを取り扱う事業者が個人情報保護委員会の調査を拒めば1年以下の懲役または50万円以下の罰金である。しかも、マイナンバー法には「表現の自由、学問の自由、信教の自由及び政治活動の自由を妨げてはならない」といった留意はない。
このような規制は国が国民を監視するために出来たものではなく、国が国民の個人情報を管理することで起こる「プライバシー侵害」への懸念から作られたものだ。何か危険そうなものがあればテレビのコメンテーター等が「何らかの規制が必要だ」というので、ご希望どおり「何らかの規制」を加えたわけである。しかし、この規制は国民に対するものであって、警察のような国家機関を規制しているわけではない。