その日、筆者はJR近江八幡(おうみはちまん)駅に降り立った。目的は1つ、ある地域が同和地区指定を辞退した背景を調べるためである。
「声に出して読みたい「同和と在日」文献の旅」では、滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市若宮町(わかみやちょう)のことを採りあげた。「近江八幡の部落史―くらしとしごと」によれば若宮町は被差別部落であったが、1969年に同和対策事業を辞退することを市議会に請願して可決されて以来、国の同和対策事業が終わるまで同和地区として指定されることはなかった。そして、一昨年の近江八幡市議会で冨士谷(ふじたに)英正(えいしょう)市長は「要は若宮町は正直に申し上げまして、以前といいますか、被差別部落という言葉がありました。でも、若宮町の場合は同和地区というのを指定を返上されたというふうに理解をしてるん」と発言した。
本誌では主に同和対策事業に着目して同和とは何かということを解明してきたが、同和を理解するためには逆に「同和でない」地域を知ることも必要であろう。そこで、部落解放運動のゆかりの場所でありながら同和地区指定されなかったという少し変わった歴史的背景を持つこの地区に興味を持ったわけである。
前の記事でも触れたとおり、近江八幡市では、部落解放同盟の不正会計問題を期に、冨士谷英正市長が地元との協議をせずに、隣保館など同和事業関係の施設を全て閉鎖した。なので、同和色は薄くなっているだろうと思っていた。しかし、駅のトイレに入って驚いた。そこには「差別落書きは犯罪です」「お互いの人権が尊重される差別のない明るい社会をつくりましょう」という張り紙があったのだ。「事業はなくなっても差別はまだある」そんなメッセージがそこから発せられているように思えた。
駅前に出ると、早速「近江八幡市人権センター」という案内板が出ていた。人権センターは駅のほど近くにあり、ちょうどこれから向かう方向と同じなので、とりあえず立ち寄ってみることにした。それに、この手の施設には大抵図書室があり、いろいろな意味で興味深い資料が見られるのではないかと思ったからだ。
センターの中に入ると、いきなり職員に「どんなご用でしょうか?」と声をかけられた。とりあえずは、正直に取材目的でやってきたことを告げた。しかし「若宮が同和地区指定されなかった理由を知りたいんです」と直球に言うのも何だったので、「若宮町を取材したいのですが。何でも水平社初代委員長の南(みなみ)梅吉(うめきち)の出身地だそうなので」と答えた。
「ああ、でも南梅吉はほとんど京都に住んでいたので、若宮に行っても何にもないよ」
職員の返事はそっけなかった。
「公民館とかに資料はありませんか?」
「若宮に公民館はないよ。自治会の草の根ハウスがあるけど、あそこは職員が常駐してないから今行っても閉まってる」
そこで、持ってきた「くらしとしごと」を見せると、「そのことなら市史編纂(へんさん)室に行ったほうがいい」と、市史編纂室の場所を案内してくれた。しかし、諦(あきら)めきれなかったので「南梅吉のこと以外も地元の人から聞いてみたいんですが」と言うと、こんな答えが返ってきた。
「それは難しいんじゃないかな。若宮は未指定地区だからね」
普通、行政職員があそこは同和地区だとか、ましてや「未指定地区」などということは言わないものだが、トップの市長が議会で公言してしまっているのだから、今さら配慮する必要はないということなのだろう。職員にしきりに市役所の方を指さされつつ、愛想笑いをしながらセンターを出た。しかし、筆者は彼らの助言を無視して若宮の方向へと一直線に進む。あそこまで言われてしまうと、ますます行きたくなるのが人情というものではないか。
田んぼの中に浮かぶ島
「くらしとしごと」では、若宮は「船の着かん港」と表現されている。しかし、地図で見るそれは港というより“島”という表現がしっくりくる。近江八幡駅の南側に広がる田んぼを海に見立てるなら、その中にぽつんと若宮の集落が島のように存在している。とは言っても若宮は非常に大きな集落だ。
線路沿いに西に向かい、途中から白鳥(しらとり)川に沿って南に向かうと、右側に大きな若宮の集落が見えてきた。さらに田んぼの中にある農道を通って、いよいよ若宮町に入った。駅から歩いて20分ほどであろうか。部落にありがちな洪水を起こしそうな川が近くにあるわけでもなく、急斜面にあるわけでもない。駅まではずっと平地なので、駅まで自転車で毎日通うとしてもそれほど苦にならないだろう。近江八幡駅が新快速停車駅であることを考えれば、悪くないどころか、むしろ恵まれた立地にある。
集落に入ると、そこは拍子抜けするほどごく普通の田舎の村だった。大きな家もあり、小さな家もあるが、当然ニコイチ住宅や公営の団地のようなものはなく、見るからに悲惨はあばら屋というのもない。ちょうど筆者の実家の周囲もこのようなところで、田舎育ちの筆者には懐かしさを感じさせる風景だ。しかし、それでいて寂れているわけでもない。
集落の中ほどまで来ると、立派な寺が現れた。寺の名前を見ると「教信寺(きょうしんじ)」とある。これが文献(部落解放研究(2003年8月))に出てくる「十座村(じゅうざむら)の教信寺」だ。寺の境内には黒い石版があり、そこに本堂の改築にあたっての寄付者の名前が刻み込まれた石版があった。石版には「南」姓の名前がずらりと並んでおり、南梅吉の故郷に来たということを実感させられた。また、200人くらいの名前が刻み込まれた石版が3枚もあり、この集落の大きさを実感させるものでもあった。
田舎の集落とは言え、これだけの大きさになれば酒屋もあればコンビニ(セブンイレブン)もある。工場もいくつかあり、集落のはずれにある鉄工所は見るからにフル稼働中であった。しかし、一歩集落を出れば一面の田んぼである。旅館でもあれば泊まってみたいところだが、さすがにそれはないのが残念だ。集落の端には東海道新幹線の高架が貫いており、新幹線が通過すると、さすがに風切り音が聞こえる。
しかし、ここに来た目的は観光でもなく、歴史に思いを巡らせて感傷にひたるためでもない。さっそく住民に聞き込みを開始し、この地に詳しい人物を探し始めた。玄関に「身元調査お断り」というステッカー貼られた家があったが、今回は別に個人の身元を暴露しようということではなく、市議会でも公言されているように「若宮町が同和事業を辞退した」背景を知りたいだけなので、何もやましいことはない。そう自分に言い聞かせながら取材を続けた。
地元住民によれば、若宮町には市議会議員が1人いたのだが、既に亡くなってしまったのだという。それでも、この地に詳しいという有力者に会うことができた。
こんな大きな在所、隠せるわけないやんか
「うちのとこは、同和問題には敏感やで」
開口一番言われたのがこの言葉だった。さらに、本誌「同和と在日」の見本を見せるとさらに表情が硬くなり、「こんなカタい名前の本に書いていらん」とまで言われる始末だ。しかし書く。
若宮は世帯数が多い割には田んぼが少なく、160反の田んぼに対して農家が100世帯くらい、平均すると1世帯あたり1.6反(16アール)程度であったという。一方で産業として鹿子(かのこ)絞(しぼ)り(小鹿の斑点のような模様の染め物)があり、自営業で財を成した家がいくつもあった。ただ、中国や韓国から安価な衣料が入ってくるようになると、鹿子絞りの産業は廃れた。
部落全体では決して豊かではないとは言え、極端に貧しいというわけでもなかった。1954年に近江八幡市が発足する以前、桐原(きりはら)村だった頃には地区から村長を出したこともあったという。
早速、今回の本題である冨士谷市長の市議会での発言のことと、同和対策事業を辞退した経緯を聞いてみた。すると、意外な答えが返ってきた。
「ウチは被差別部落だということは認めとる。別に寝た子を起こすなとか言うつもりはない。だいたい、こんな大きな在所(ざいしょ)、隠せるわけないやんか。300世帯くらいあるのに。あんたにはとても言えんような差別もあった。ただ、同和事業はやらんかった、それだけのことや」
国の同和対策事業が始まるということになった昭和40年代はじめ頃、地区指定を受けるかどうかで地区内の意見が割れた。しかし、最後は青年団を中心にあがった「物貰(もら)いみたいなことはしたくない」という意見が勝った。もちろん、今さら部落ということを蒸し返してほしくない、つまり「寝た子を起こすな」という考えを持つ人もいたが、そのことは一面にすぎないという。それよりも、極端に貧乏しているというわけでもないので、自主独立でやれるという思惑があったのだ。また、当時は同和事業を受けるためには解放同盟を組織する必要があったが、意見が割れたので、組織することもできなかったという。
「物事は何でもそうやけど、右向け言うたってみんなが右を向くわけはないやろ」
ただ、2009年から翌年にかけて部落解放同盟滋賀県連の名簿が流出する事件があったときに、支部名の一覧も出て、その中に若宮支部があった。そこで、あれは何なのか聞いてみた。
「特措法が切れる2年くらい前、平成11年のことやったかな。5、6人くらいが解放同盟の若宮支部をあわてて作った。やるんなら本気でやれ、支部員の名簿を見せろと言ったけど結局出てこなかったな。そんな調子だから「若宮の名を名乗るな」という声まであがった。特措法が終わってからは活動してないね」
無論、共産党系の全解連や保守系の同和会のような組織もできなかった。
「同和会なんて、名前からして“同和”って看板出してる時点でオレは同和だって役所を脅す気満々やろ。被差別部落だからという理由で役所から金をもらうのは本当の解放やない。その点若宮は同和事業の金はもらってない。1円も。そういう意味でうちは100%純粋な解放運動をやった。それだけは誇れる」
とにかく「同和」という言葉は不快であるかのような反応をされてしまう。「ここは部落かも知らんけど同和ではない」ということなのだ。本誌「同和と在日」への拒否反応もそうなのだろう。
しかし、同和事業を辞退したことの代償は大きかった。八幡(はちまん)、大森(おおもり)、堀上(ほりあげ)など周囲の「同和地区」は国の予算でどんどん整備されていく一方で、若宮は事業から取り残された。同和対策事業は3分の2が国の予算で行われる。それが一般対策なら、全て市が負担しなければいけない。近江八幡市の人口は8万人程度で、同じ滋賀県内の草津市のように人口が急増してどんどん企業が進出しているわけでもないから、特別に金がある自治体でもない。そこで、「同和地区」ではない若宮の事業は後回しになった。
「だけど、それはおかしいちゃうか。同和事業を辞退したからって、それは何にも事業をするなということではない。他の地区が新幹線なら、うちはどん行でいくということで、同和事業でなく一般事業をやってくれと市にいったのに、なかなかしないから市議会であんな質問が出た」
若宮を含め、JR東海道線から離れた近江八幡市南部地域は未だに下水道が来ておらず、ぼっとん便所である。また、土地改良の補助の対象になるのは3反以上の田んぼという制約があったため、前述のとおり1件あたりの田んぼの面積が小さい若宮は土地改良事業を断念し、自前のポンプ小屋で用水をくみ上げているという。その一方で、若宮が被差別部落ということは周囲では有名過ぎるため、若宮は同和事業をやったと勘違いしている人もいて「自力で整備した道路でも、まるで行政の金でやったかのように言われることがある」と憤る。もちろん前述した教信寺の改築も、全て住民の寄付によるものだという。
「市にやってもらったのは、アスベストを使っているからということで、古い水道を改修してもらったくらい」
ただ、同和事業を辞退したことは後悔していないし、市を恨(うら)んでいるわけでもないという。
「たぶん市も後ろめたいところがある。一方でウチは市に借りがない。だから市に対して何でも言えるんや」
自主独立という「解放運動」
「部落問題人権事典」(部落解放・人権研究所編)には、未指定地区についてこう書かれている。
未指定地区になった経緯については,さまざまな理由がある。第1に行政機関の部落問題に対する消極的姿勢,第2に地区住民の間で*という声が強いこと,第3に,ある程度豊かな地区であったため,に主たる力点を置いてきた同和対策事業の実施の必要がなかったため,などが挙げられる。第3の理由による少数の場合を除いて,未指定地区では,同和対策事業が未実施のまま,劣悪な生活実態が放置されている。
しかし、これはおかしい。客観的に見て「劣悪な生活実態」があるのなら、同和地区であろうとなかろうとそれを行政が放置してはいけないはずだ。しかも、事業を受けるためには「ここは同和地区である」ということを宣言し、なおかつ部落解放運動団体を組織する必要があるのなら、同和対策事業の目的は住民の生活向上ではなく、莫大な同和対策予算をエサに部落解放運動団体の組織を拡大することだったのではないか――そんな疑いさえ感じてしまうのだ。
「事業はみんな、解放同盟があって声の大きいところにいってしまった」
若宮の有力者が語るように、声の大きい人ばかりが得をし、控えめにやっていると取り残されるという実態があったのだ。そのような状況は今でもあまり変わっていないように思う。
ところで、滋賀県内の有名な「未指定地区」は若宮以外では栗東市の小柿(おがき)、近江八幡の御園町(みそのちょう)がある。そして、地区指定されなかった小さな集落は他にもたくさんあるという。しかし、その中でも若宮の規模は最大だ。
「たぶん、こんな“隠れ在所”は他にないですよ。大きさでは全国一やと思いますわ。それに、人の出入りもあまりないから“純粋”やしね」
特定の地域を指して「あそこは未指定地区だ」という噂はネットなどでしばしば流れるが、確かに若宮ほど大規模な集落は聞いたことがない。しかも若宮の場合、意図的に地区指定を受けなかったのだから「未指定」というのには語弊がある。同和地区指定を辞退した地域というと、どうしても「被差別部落ということを蒸し返したくない」「解放運動をやりたくない」という消極的な理由であろうと勘ぐってしまうが、おそらく若宮の場合、同和地区指定を積極的に辞退し、自主独立路線で進むことが「解放運動」のやり方であったのだろう。
地区指定を受けなかったために、事業からは取り残されたわけだが、逆によかったこともあるという。
「これほど大きな在所やから、もし事業してたら権力争いになってたやろうね。だけど争って得るもの自体がなかったからそれもなかった。よその地区だと、二戸一を払い下げるという話があるけど、それなら自分でローン借りて家建てた人は馬鹿みたいだってもめてるでしょ。うちはもちろんそんなこともない」
近江八幡でも同和地区には二戸一の同和向け市営住宅が多数建っている。一般開放するか、住民に払い下げるかどちらかをしないといけないのだが、仮に二束三文で住民に払い下げるようなことをすれば、苦労して自分の家を建てた人よりも、手っ取り早く市営住宅を借りた人のほうが得をするということになってしまうのだ。
ところで、とある行政関係者からは、中学校の先生曰(いわ)く「スクールウォーズみたいなフィクションなんか目じゃないゼ!」というコメントがあった。これはどうなのか。
「子供が30人くらいおるからね。それだけの人数になればやんちゃなこともするわな」
ということだ。
若宮という地域も問題を抱えていないわけではない。しかし、そのほとんどは「在所」だからというよりは、おそらくは地方の農村であればどこでも抱えているような問題である。若宮の事例から見えてくるのは、地域が同じ問題を抱えていても「同和地区」であれば厚い手当を受けられ、そうでなければ後回しにされる、そういった不条理だ。
「まあ、何かよい解決方法が見つかれば、また来てください」
最後にそう言われて、筆者は若宮を後にした。
以上で、若宮探訪は終わりである。率直なところ、「書いていらん! 若宮ということを出したら抗議する! 書くなら書きっぱなしじゃなくてうちらと一緒に戦ってくれ」と言われている。
若宮と同和事業の問題は、いわゆる「未指定地区」に限るものではなく、様々な地域に当てはまるだろう。例えば昨今話題になる限界集落の問題、僻地(へきち)や離島等々。それらについて、声の大きいところばかりが優先され、本当の意味で住民の生活や、あるいはその土地の住人を守ることにより国土を守るという国益が忘れられているのではないかと思うことがある。まして、事業を受けるためには「ここは差別される地域です」と宣言しなければならないとすれば、事業自体が別の問題を生むことになる。「同和」という色眼鏡で地域を見るのではなく、純粋な目で地域の実情を把握することは、そのような意味で重要なことだ。
多少方向性の違いはあれど、本誌はそのために戦いまくっていると自負している。だから書く。(鳥)