中小森3部落のもう1つを探訪する前に池田本町住吉に立ち寄った。中小森に近いが、ここはかつての池田村であり、中小森3部落には含まれない。江戸時代は木原村、その後池田村枝郷西村となり、桐原村の一部となった後1954年に近江八幡市に編入されて現在の名前になった。
明治半ば頃に54軒、大正時代から昭和初期は49軒、1991年に52軒、1996年に53軒と記録にあるので、明治時代から軒数が変わっていない。
村の起源はよく分かっておらず、一説では関ヶ原の戦いで負けた豊臣側の残党だという。
周辺の他の部落と違って、ここの世帯数が増えなかったのはこの場所があまり良い土地でなく、水害の危険が大きかったためという。確かに、ハザードマップで見ると部落が洪水の危険が高い低地で囲まれており、これ以上家を建てる土地を広げる余地がない。
また、井戸水の水質が悪く、金気が多いという。農村であり、田んぼもそこそこ持っていたのだが、それも水はけの悪い田んぼだったという。
つまり、中小森3部落同様部落にしては土地を持っていたのだが、堀上や大森のように新しい宅地が広がらなかったのは、宅地に適するような土地がないためだろう。
そして、近代になると塗装業が村の主な産業になった。
これは自治会館。もとは教育集会所だったものが、地元に払い下げられた。
隣は児童館で、これも同和施設だったのだが。
一応今も市の所有になっており、「住吉児童館」のプレートは残されているものの、張り紙には「桐原社会体育施設(住吉体育館)」と書かれている。ただし、現在は使用禁止とのことだった。平成29年4月から使用禁止ということなので、コロナは無関係で建物の老朽化のためだろう。
『同和対策地域総合センター要覧によれば』には農機具保管庫、農業作業場があった。市営住宅も7戸あったはずだが見当たらない。
この日野川霊園は比較的最近できたもの。同和対策というわけではなくて、周囲の一般地区もふくめて墓地をまとめてここに移したものということだ。
なお、自治会館を含め、この辺りはかつては沼だった。
そして、これが部落の寺で徳行寺。やはり近江八幡の部落の寺なので真宗大谷派である。
寺の門を兼ねた納骨堂は昭和40年代に作られたもの。『滋賀の部落』に掲載された写真の通りである。
部落に限った寺じゃねーよ
本当に取材が雑です
自称ジャーナリストもいいけど、、、、
線路を挟んだ反対側に市営住宅があります。
ここも含めて桐原のムラは上野町への移住が多いです。
確かに市営住宅が7戸ありますね
#c689d5ae0c782978e43cdebcbe447f04