旧原谷村の大野原に十数戸の古村があった。菊池山哉はこう記している。
○秩父街道筋。
○白山神社、昔は檜の二抱へ三抱への大木、数本あつた。祭日はオクンチと称へ、九月九日か九月二十九日。
○農家十三戸ばかり。
○二十二夜塔がある。自然石に
○○○○世○○
○政○○年
二十二夜塔
十二月吉日伏字は、故意に抹消したものである。かゝる物まで、消すには及ばないと思ふが、況して年号まで、消すに於ては、正気とは考へられない。
他の資料では15戸、農業と、内職の機織りをしており、生活程度は悪くなかったようである。
これだけの情報から特定しないといけない。秩父市の場合はおそらく同和事業もやっていないので、同和施設から特定することはできない。

大野原の範囲は広い。ただ、秩父街道沿いということは、探索範囲は国道140号沿いに絞られる。

明治期の地図から検証してみる。筆者が候補と考えたのは、1つは南側の現在の愛宕神社付近。街道が曲がっているため、長吏が置かれそうな立地だ。
しかし、それよりも可能性が高いと思ったのはもう1箇所、大野原内の街道の北の端の横瀬川に差し掛かった黒谷との境界あたり。

明治期の地図には川の付近に鳥居マークがあり、これが菊池山哉が記した白山神社ではないか?上の昭和初期の地図では神社がなくなっているが、道が強く曲がっていたことが分かる。現在は国道が直線になっているが、古い道は残っており、いかにも村の境界にある監視場所として適した地形だ。


まずは曲がりくねった旧道に行ってみた。神社は見当たらない。代わりに立ち小便禁止の鳥居がある。


しかし、これは明らかに神社があったであろう名残が見受けられる。かと言ってこれだけでは確証が得られない。竹藪があって進めないが、別の道からこの竹藪の裏手に回れば何かあるのではないか?


これが竹藪の裏手。観音様であろうか?いずれにしろ、ここに古い村があったことは間違いない。


そして、この「進和区公会堂」という文字を見たとき、ここであると確信した。前回クエストした古村の現在名は相生、そしてここは進和。いかにも昭和初期のネーミングセンスである。昭和初期に示し合わせたように地名を変える「共通の理由」があったということだ。

こうなると、確実に二十二夜塔があるはずだと思って血眼になって探したらやはりあった。これは紛れもなく自然石の二十二夜塔。

菊池山哉が記録した通り、文字が意図的に消されたのか、単なる風化なのか分からないが、とにかく彫られている内容は一致する。菊池山哉の時代には、削った痕がはっきり分かったのだろう。


「産泰様」と呼ばれているこの石。こちらの方は今見ても、もとは別の文字が彫られていたのが削られて、上書きされていることが分かる。


隣りにあるこれはよく分からなかった。住民によれば、一昨年、駒澤大学の研究者が訪れていろいろと聴取していったということであるが、住民でもはっきりとした由来は分からないそうだ。


公会堂の横にある祠が白山神社ではないかと思ったのだが、地元では神武天皇と伝承されているという。しかし、古村の歴史が進和と改名されると共に徹底的に抹消されたのでは。




墓地を見ると、おそらく真言宗で、確かに数は記録された古村の戸数程度だ。名字の分布から、この場所と、さきほどの曲がりくねった道沿いに位置していたことが分かった。

現在の秩父街道は切通のようになっており、墓地から見下ろせる。当然、昔はここに道はなかった。




大野原の記事ありがとうございます。
記事について、二十二夜と二十三夜とか横瀬川と黄瀬川が混同されていませんか?
表記を統一してほしいです。
すみません、修正しました
墓地に最も多い苗字は何でしたか? 『俺たちの季節』、『性蝕記』、『肉弾時代』、『ライク ア ローリング ストーン』、『ジャンピン ジャック フラッシュ』、『孔雀風琴』の作者と同じ?
中島、櫻井などです
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