解放新聞社編『被差別部落 東日本編』には「(小千谷市で)一番大きい部落のあるところは、吉富町のはずだが、いつの間にか、船岡町と名称がかわってしまった」という記述がある。そこには、6世帯の市営住宅「追分アパート」があったという。
また、昭和初期には北原町という36戸の古村があったという記録もある。
確かに小千谷市には船岡という地名がある。ここが吉富町なのだろうか?
『小千谷市史 下巻』に明治初期の現在の小千谷市船岡付近の地図が載っている。吉富町という名前はないが「北原町」なら記載がある。
ともかく、現地に行ってみた。解放新聞社の本に船岡町と書いてあるので、ここだろうと思ったが、ここは湯殿川の西側。『小千谷市史 下巻』の北原町は川の東側にある。
湯殿川の東に行ってみた。船岡町交差点があり、船岡の範囲内。『小千谷市史 下巻』の地図だと、ここは北原町の南の端のように見える。しかし、ここから北に少し進んだだけで、船岡の範囲から出てしまう。
そこで重要な証言が得られた。何の変哲もないこの空き地だが、確かにここに6戸の市営アパートがあったという。しかし、ここは地名では日吉になる。
『被差別部落 東日本編』によれば、「このアパートの前は部落の墓地だが、墓地と道路のわずかな空地を、ゴミ置き場にしようとしたことがあった。墓地の所有者の承諾もなければ、アパートの住民への相談もなかった。市へどなりこんで変えさせたという。」という記述がある。皮肉なことだが、今はそこにごみ置き場がある。やはりここが都合が良かったのか。写真の向かい側の小さな空き地は墓地の跡だろう。
都合により、2ヶ月ほど後に撮った写真。空き地が整地されている。古村の中心はここから少し北の辺りになる。
確かにここは昭和の頃までは吉富町だったという。
それが、『小千谷市史 下巻』の地図に記載がある「天竺町」と合併して日吉1丁目になった。
伝承では、「イッタ」「ヨッツ」と呼ばれていた。
『小千谷市史 下巻』の地図から分かる通り、付近に信濃川の船着き場があり、そこに街があって、その裏手が吉富町である。牛を解体し、革を湯殿川で洗っていたと伝える。
今はかなり人が入れ替わっているという。『被差別部落 東日本編』によれば80戸くらいの混住のなかの40戸と書かれており、当時からすでに家が混じり合っていたようである。
これが前述の湯殿川。
今でこそ寂れた田舎町になっているが、船着き場があった頃は、近くの街には遊郭が出来るくらいに栄えていたという。
それが船着き場近くの街の天竺町と合併し、融和が進んでいるということである。
中心地は、五智院と湯殿川に挟まれた辺りですかね
江山人権福祉センターの前身が下味野隣保館のような気がしますが、江山の由来?なぜ改名したのか?現在の活動内容?税金の無駄使いや否や?差部落差別はアリやナシや?下味野の同和対策事業は良かったか否か?もしその事業で不当利益を得てたら、その人は誰?住民の部落訪問記事の評価は❓??諸々・・・
是非 下味野に訪問してほしい
実家でジビエ料理でもつつきながら、親族、知友人、住民、猟友会・・との歓談なんか面白いかも
良い記事が書けるし、何より記事の中身か解同の攻撃をかわす一助と思うが、、、よその部落ばかり訪問じゃぁ・・
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とっとり地域部落史研究
下味野部落研究会
下味野歴史調査
小谷家文書
上田家の資料
チャンネルくらら
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宮部発言を矛盾と詭弁という団体や人の論を払拭する根拠ためにも是非、宮部氏の実家部落 下味野へ訪問し取材し確証を得て、現況を記事にしてください。資料はたくさんあると思いますし親族、知友人、部落民、人権擁護委員公的機関等々への取材を期待してます。
現在部落差別はあるや否や
結婚差別はあるや否や
江戸期まで先祖を遡れる人はいるや否や
部落探門記事はやめて欲しいかどうか、その理由
下味野で行われた同和対策事業の評価(非合法な利益は?事業自体が税金の無駄使いであるか否か)
いろいろ、宮部氏がジャーナリストとして直に容易に知りえる情報が満載の下味野へぜひ。
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ここは当初高田藩だったのが、幕府直轄領になり、それから会津藩の預かり地になった。
掲載されている地図の「役所」が小千谷陣屋。「旧番所跡」辺りに牢屋が設置されていたと。後に牢屋は高台に移設されたそうですが、「天竺町」の北端・西側に小公園・休憩所がストリートビューで見られたので、そこかもしれないと推測。
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