「〇〇(地名)は部落だ」というと、〇〇全体が部落というわけではなくて、ごく一部ということもあるし、逆に〇〇だけではなくいくつかの周辺地域も含めて部落ということはよくある。
今回訪れた甲田町は前者のケースで、甲田町のごく一部が部落である。1931年の記録では9戸に過ぎない。グーグルマップで甲田町の主要地点として表示される集落は全く部落ではなく、それよりも南側のソーラーパネルの脇にある民家らしい民家が殆ど無い小さな一角が部落なのである。
ただ、この部落はもとから寂れていたわけではなく、明治初期には67戸あったという。
竹やぶの中を進んでみると…
山田神社の立派な鳥居がある。
道には竹や木が倒れ、荒れに荒れていて神社に近づくのは困難だ。ヤブ蚊が多く、かなり刺された。ただ、昔はかなり立派な神社であったに違いない。
確かに、部落の中はわびしい感じがする。
これは改良住宅の集会所と考えられる。
なぜ、ここまで寂れてしまったのか。『滋賀の部落』によれば一部の皮革商への依存が強かった部落が、皮革産業の凋落により仕事を求めて住民が大都市に出稼ぎに行くようになり、そのまま帰ってこないことが多かったと説明されている。
ただ、この近くには中山道と北国街道の分岐点があり、人の流れもあったはずで、甲田町の本村は極端に寂れていないところを見ると、それだけでは説明できないように思う。
部落の奥には墓地がある。南無阿弥陀仏、法名といったことが書かれているので浄土真宗であることが分かる。苔むした墓石、倒れたままの墓石もあり、部落の凋落がここにも反映されているようだ。
部落だの同和だのと言った掲示物はない。
ただ、昔の電話帳によればこの辺りに部落解放滋賀企業連合会の事務所があったようだ。
そこには土建業者と太陽光発電所があるだけだ。
稲荷神社らしきものがあるが、土建業者の土地の中で近づけなかった。
遊具もない粗末な公園だが、草むしりがされ、管理はされているようだ。
最寄り駅はフジテック前。すぐ近くにあるので、この部落は交通の便が特に悪いわけでもない。
解放同盟は組織されておらず、戸数が基準に満たないためなのか隣保館や教育集会所もない。
なぜ梅本村は凋落したのか、残念ながらはっきりとした理由は分からなかった。
なぜ凋落したのかといえば、『荒川の部落史: まち・くらし・しごと』に記載がある通り、甲田地区出身の秋元源彌と大野房次郎が東京浅草で皮革工場の経営に成功して億万長者になったため、地元の部落民たちがそれにあやかろうとして東京に移住してしまったためではないでしょうか。
融和事業や同和対策事業に拠らない、自力による部落解放ですね。こういう幸せな形で解放された地区は珍しいと思います。
解放されたと言うより、それは単に過疎化しただけでは。
今時、無理に土地に縛り付けられる必要はないということではあるとは思いますが。
その方の曾孫だか玄孫が、CMソングの女王こと大野方栄さんみたいです。
全国部落調査の時点で10戸以下
本村も60戸くらいか
ソーラーパネルの会社が部落解放同盟の支部があった
昔は焼肉ぜんちゃんやヘルスオアシスがあったんやろソコ
解放同盟の支部は昔からなかったみたいに聞いてますが、あったんでしょうか。
滋賀県連の支部リストが流出した時に、若宮みたいな未指定地区に支部があるのに、甲田町にはなかったと思います。
同和地区wikiを見たら分かるが何故あれだけ多様な姓なのか
明治新姓や元々に苗字持ちの復姓にしても疑問
渡り非人系の部落か
出自をわかりにくくするために、意図的に名字をバラバラにしたという可能性はないでしょうか。伊賀市の前川がそうだったように。
でループさん
ネットの電話帳の削除を元に戻そうかと呟いていたね
戻したのか?
来年元に戻します。
部落解放滋賀企業連合会湖北事務所
部落解放同盟滋賀県連合会
とそれぞれ電話番号が違う
多様な姓は末子相続させて田畑を守り長兄などは牛馬商として各地方の姓を真似たか
正確にはふりがなは、「こうたちょう」と濁点はつかない様ですね。
関西、とりわけ滋賀県は濁点が付きそうで付かない地名の読みが多いのか。
忍者で有名な甲賀も「こうか」、米原も本来は「まいはら」。米原はあまりにも全国的に
「まいばら」と読まれた為に、市に変わった時に「まいばら」市としました。今でも高速
道路の交通情報では「まいはら」よりお知らせ致しましたと言っております。
すみません、確かにこうたちょうでした。訂正しておきました。
江戸時代、この地区から彦根藩へ武具用の革皮を上納していたという話を、史学者の著書で目にした事があります。
北を上にする為、地図の向きを変えておりますが。
毎度ありがとうございます。贅沢を言えばもう少し解像度の高い画像があると有り難く存じます。