今回訪れたのは御園町。かつては薗畑という名前で、例のデータだと昭和初期には103戸の部落だった。近世は横井村と呼ばれ、明治初期の記録では156戸とあるから、明治以降から昭和初期にかけて世帯数が減った珍しい部落である。
さらに特筆すべきことは、戦後にこの部落は同和行政を巡って非常に特殊な経過を辿った。この歴史は忘れられようとしていたところであるが、同和行政の研究上、極めて重要な記録なので、分かっていること出来る限り詳細に記述することにする。
今回訪れたのは御園町。かつては薗畑という名前で、例のデータだと昭和初期には103戸の部落だった。近世は横井村と呼ばれ、明治初期の記録では156戸とあるから、明治以降から昭和初期にかけて世帯数が減った珍しい部落である。
さらに特筆すべきことは、戦後にこの部落は同和行政を巡って非常に特殊な経過を辿った。この歴史は忘れられようとしていたところであるが、同和行政の研究上、極めて重要な記録なので、分かっていること出来る限り詳細に記述することにする。
On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと。
今回は、近代の部落研究の成果についての続きである。そして、近世つまりは徳川幕府時代の部落が、同和事業が行われた20世紀半ばの研究と、今もなお流布している「通説」と全く違ったものであったことを説明している。例えば、江戸時代の身分は常に固定されているわけではなく、流動的であったということだ。