曲輪クエスト(202) 福岡県 田川郡 糸田町北区二 福智町神崎三 “七十石”

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By 宮部 龍彦

同和事業最盛期の田川郡には様々な伝説が残されているが、糸田町と福智町の境界にある七十石という部落にも伝説的な建物がある。それが通称鉱害城である。

中原京三の著書「追跡・えせ同和行為」には「同和地区ののまんなかにそびえたつ三階建の天守閣つきの豪邸は、周辺住民からは“鉱害城”と呼ばれている」との記述がある。

1933年の記録では七十石は福智町と糸田町にまたがっており、福智町側が20戸、糸田町側が11戸と記録されている。自治体の境界に存在する部落は少数ながら存在し、ここの場合は2つの町でそれぞれ同和地区指定されたようである。

まず福智町側に降り立った。目についたのは公営住宅。昭和50年前後の様式である。

そして、ここから既に伝説的物件が見える。

周囲は立派な塀で囲まれている。「追跡・えせ同和行為」によれば、当時の持ち主は糸田町議の井手元登という人物である。

「鉱害城」と言われた理由は、当時は炭坑による鉱害の補償が公金で行われており、その過程に入り込んで「手数料」を稼ぐ「鉱害屋」の1人が井手元氏であったからである。

井手元氏は「日本同和会全国連合会会長」を名乗り、同和の威光を使って鉱害以外のも様々な利権を得ていたようである。例えば町に「水」を売って1億5000万円稼いだという話がある。土建屋、社会福祉法人、ガソリンスタンド、散髪屋、マンションと様々な事業を手掛けていたという。

しかし1985年、井手元氏は町議会議員に対する脅迫と、町職員に対する暴力行為で逮捕された。

当時とほぼ同じ形で建物が残っているが、なぜか「天守閣」だけがなくなっている。

周囲も大きな家が多い。

その間に公営住宅があり、道路には造園業者や土建業者のトラックが停められている。

過去の記録では11戸のはずだが、それよりも家が多いように見える。

さらに福智町側に進む。こちらは神崎こうざきという地区になる。糸田町側よりも大きな家が多いように見える。そして、庭に大きな木があることにも注目していただきたい。これは最近改良されたのではなくて、昔からこのような村だったのでは?

ここが神崎三公民館。非常に立派な公民館で、教育集会所が併設されている。

公民館周囲も広い家が多い。とても部落であったようには見えない。

改めて糸田町側の公営住宅を見たが、これだけで30戸を超えている。しかし、時期的には同和対策事業の頃に建てられたことは間違いない。川崎町と同じく、炭坑労働者の失業対策のために同和事業が使われたのでは?

別のアングルから見た鉱害城。田川郡にはまだまだ謎が多い。いずれにしても、過去の事件から推測すれば、エセ同和地区が存在していたり、同和事業が目的通りに行われなかったりしても全く驚くべきではないだろう。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(202) 福岡県 田川郡 糸田町北区二 福智町神崎三 “七十石”」への7件のフィードバック

    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      行きたかったのですが、今回はあえて行きませんでした。他に行きたい場所が多かったので。

      返信
  1. 土淵正雄

    麻生太郎元総理大臣の出身地はどうなんでしょう?あれだけの先生だから背景にはかなり黒い影があるんじゃないでしょうか?政治の方に行かなくても背景を調べてもらっても成果がありそうな気がします。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      飯塚ですね。麻生太郎自身に同和絡みのバックがあるとは聞いたことないです。
      むしろ野中広務を部落モンと言ったことが知れ渡ってますし。

      返信
  2. のんた

    田川郡の被差別部落出身です。田川郡の被差別部落の歴史は奥深くて面白いですよ😊ぼくも大学時代から自分のルーツと地域の被差別部落の歴史を研究してますが。江戸時代の田川郡は飢饉が多く農民が餓死したり離散したりすることが多く、無主田が多くありました。このため藩の政策によりよその地域から農業をする人をつのり、移住させてきたんです。それが後の被差別部落になりました。だから、このあたりは江戸時代から農地を持って農業を生業にしていたため、比較的豊かな人が多かったのも事実です。ぼくの先祖もこのときよその地域から移住してきたと考えているんですが、どこから移住してきたのかははっきりしたことはわかっていません。ちなみにこのあたりは被差別部落の人口が多かったため、明治時代などからすでに村長や村議会議員に就任する被差別部落の人も多く、また田畑を何町も所有する被差別部落の地主が多くいたのも事実です。だから、昔から大きな家が多いですし、他の地域からきた人が「ここは本当に被差別部落なんですか?」と驚くことがあるという話も聞いたことがあります。我が家も江戸時代から代々農業を生業にしてきましたし、本家は大正期には田畑1町数段を所有する自作地主で耕作人も雇っていたぐらいなんです。それでも、別の被差別部落のA家(名前は伏せますが)などは明治時代に田畑10町近く所有するなど富豪だった家もいくつもあります。このようにこのあたりの被差別部落は歴史的な関係から比較的豊かな家が多かったのも事実のようです。ご参考にしていただけたら有り難いです😊

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    1. のんた

      なお、田川郡のある被差別部落のB家は伝承ではある有力大名の家臣だったとの言い伝えが残っており、家紋もその大名家と同じなんです。ぼくの母方の家系もこのB家と同じ名字でかつ同じ地域にあり、さらに祖父の話によるともともと武士だったということです。この有力大名家を調べてみると関ヶ原の戦いで西軍についたため、徳川時代にはだいぶ所領を減らされたようなんです。石高も減り、家臣もだいぶリストラされたようなので、その家臣たちが流れ流れて田川郡に土着しやがて被差別部落となったのでは?とも推測してます。ただそれを示す正確な資料がなく、あくまで伝承からの推測にすぎませんが。被差別部落の成り立ちは地域によって多様で、ぼくも大学の卒論で部落問題を課題にし地域性に着目して論じましたが、それぞれの地域の歴史を紐解いていくことで学術的な論点なら見ていくことができると思いますのでご参考にされてください😀

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