学術・研究:部落探訪(257)千葉県 柏市 豊住

カテゴリー: 部落探訪 | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

柏市豊住は、かつて「根木内新田ねぎうちしんでん」という部落だった。戸数は43。調べたところでは、その範囲はほぼ現在の豊住の行政区画と一致していると見てよい。地図、航空写真で見ると、現在ではただの住宅地になっているようだが、かつての部落の痕跡がどのように残っているか確認するため現地を訪れた。

ここは確実に未指定地区であろうと思われる。この「豊住ふるさとセンター」はもちろん同和施設ではない。柏市にはほかにもいくつか「ふるさとセンタ」があるが、いずれも市の施設ではなく、地元自治会の所有ということである。

無論、部落や同和といった掲示物はない。

この白山神社は昔からあり、明治のころからこのような参道があり、細長い境内があった。その一部は地域の駐車場になっている。

年越しの際は住民が来て賑わっていたのだろう。その他、毎月19日が月例祭となっている。

境内に稲荷神社と、さらに大杉神社を見つけた。

これらの石碑から、昭和7年と平成17年に社殿が改築されたことが分かる。

これは昭和17年の石碑のようだが、何があったのかはよく分からない。

しかし、いずれにしても重要なのは氏子の名前が分かることだ。丹羽にわと田中がほとんどであることが分かる。

すぐに住宅地図を確認した。しかし、神社の周辺には該当する名字がほとんど見当たらない。いや、見当たらないわけではない。他の名字が多すぎるのである。

見ての通り、当地は新しい家や集合住宅が立ち並んでいる。

しかし、その間にぽつぽつと、写真のような、周辺に畑があり敷地に大きな木がある家がある。それらの家の名字はことごとく丹羽か田中である。住民が出ていったから減ったわけではなくて、ここはもともと、田畑の間に住民の家が散在していたのだ。

今でこそ住宅街になっているが、昔は本当に村だったのだ。そこに、この白山神社があった。

野田市の辺りでもそうだったが、社殿の中に氏子が入れるようになっている。

昔の地図を見ると主に家があったのがさきほどの白山神社の辺りと、このマツモトキヨシがある新柏駅の北辺りである。とは言っても、当時から家が分散していた。

昔は田畑の間に家がある村の様子を見渡せたのだろうが、今ではすっかり景色が変わっている。

白山神社周辺は敷地に大きな木があることで、古くからの家を識別できたが、マツモトキヨシ周辺はもっと開発が進んでいる。しかし、やや大きめで土地の広いことから、かつての部落の家を見分けることができる。

そして、気になるのは宗派である。それを確認するために墓地にやってきた。墓地にはこれもまた趣のある集会所がある。

墓地を見て気づいたのは、意外と丹羽・田中以外の名字が多いということだ。古くからの住民は浄土真宗が多いが、その他の住民の宗派は様々である。

また、古くからの住民の墓でも宗教色のないものが混じっていた。まさに多様性である。

このような開発された住宅街でも古くからの痕跡はしっかりと残っているのだが、ここではかなり融和も進んでいるように見えた。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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学術・研究:部落探訪(257)千葉県 柏市 豊住」への12件のフィードバック

  1. 通りがかり

    ここまで行ったのに、すぐそばの今谷南町の今谷刑場跡は見ていないのですか?
    明らかにこちらが本線と思いますが。
    因みに柏市教育委員会作成の現地案内板によると、明治の初年に最後の処刑があったそうです。

    返信
    1. 啓発センター 投稿作成者

      すみません、そこは見逃していました。また近辺に行きますので見てきます。

      返信
    2. 今谷刑場について

      『柏の風土記』の著者によると、明治元年に強盗犯を出生地であるこちらで斬首しただけみたいです。
      江戸時代の常設的な刑場であれば、もっと記録が何かしら残っているかと。
      豊住の部落民に刑吏の仕事をさせていたとかの話は全く無いと思われます。

      返信
    3. 菅四ジャイアンツ

      「本線」とは何の本線でしょうか。山田浅右衛門を見れば明らかなように、刑吏すなわち被差別民というわけではありません。斬首刑は良民の仕事です。磔と火炙りが被差別民の仕事です。

      資料1
      『江戸の犯罪と仕置 百余の判例からわかる武家・庶民の暮らしとお裁き事情』丹野顯 著 洋泉社 2017.8(322.1/5473/2017 7109292529)
      p.19「多くの役人が注視する中で一刀のもとに首を斬り落とすのには熟達した技量が求められる。(略)そのため将軍吉宗のころから公儀御様御用を務める山田浅右衛門(朝右衛門)に金二分を渡して斬首を代行してもらうのが一般になった。浅右衛門は浪人であり、(後略)」

      資料2
      『大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代』増補 氏家幹人 著 平凡社 2016.2(S/210.50/5640/2016 7106915168)
      p.106-107「お出入りの屋敷というのは、いわば試し斬りや鑑定など刀剣に関する山田家の技術と知識を恒常的に買ってくれる顧客にほかなりません。(略)試し斬りや鑑定を頼みにくる大名・旗本は多く、浅右衛門は当時刀剣に関する最高のコンサルタントと目されていた観があります。(後略)」
      p.110「試し斬り、人斬りという拭いがたい穢れの印象とは裏腹に、浅右衛門は刀剣界におけるゆるぎない名士として、刀剣を愛する多くの人々に尊重されていた」
      p.115「なぜ浅右衛門は浪人のままだったのか。(略)罪人の屍で試し斬りをする浅右衛門の御用は「飽くまでも非公式に、内々に」行われなければならず、おのずと「山田家の浪人が決定された」」

      資料3
      『日本史広辞典』日本史広辞典編集委員会 編 山川出版社 1997.10(R/210.03/3035/1997 1128471129)
      p.2247「ろうにん[牢人] 浪人とも。江戸時代、主家をもたない武士や奉公人。(略)江戸では町奉行所による掌握・管理のもと、苗字帯刀と町方居住を許すようになる。(後略)」

      2.処刑を担当する基準
      資料4
      『江戸の刑罰風俗誌 増補牢獄秘録 拷問実記 吟味の口伝』増補版 小野武雄 編著 展望社 1998.5(3221/199A/98 1128551186)
      p.232-234「四、刑罰譚誌 非人」に「非人が幕府に対する公役としては、罪人の取扱にして、引廻人ある時は、護衛の任に当り、死刑執行の時には、其雑役幷に跡片付け等の事に従えり。」とあります。

      資料5
      『死刑執行人の日本史 歴史社会学からの接近』櫻井悟史 著 青弓社 2011.1(326.4/5076/2011 5020300264)
      p.52「士庶共通の死刑として磔があり、これが江戸時代の死刑では最も重い刑とされていた。その理由の一つは、執行人が士分ではなく、下賤の者(被差別民=いわゆる非人)だったからである。」
      p.55「牢屋には(略)日雇いとして非人も傭役していた。引き廻しのうえの獄門、磔、鋸挽き刑の執行の際には、数十人の非人が使役された。しかし、基本的に非人は死刑執行を担っていたわけではなく、罪人の体に直接触れる作業をおこなっていた。(略)非人が死刑執行をおこなった磔は例外的なのである。」

      資料5の参考文献の一つです。
      資料6
      『日本死刑史』修訂 布施弥平治 著 巌南堂書店 1983.8(3264/7A/83 1128370690)
      p.367「磔と火罪は被刑者が下賤の者の手によって落命するのであるが、斬罪、死罪、下手人などは下級武士の同心又は山田浅右衛門によって刎首されるのである。即ち直接何人によって刎首されるかは死刑の軽重に作用するのである。」

      返信
  2. 通りがかり

    柏市HPに今谷刑場跡について記載されていますが、江戸末期から明治初年、恐らく晒首令廃止の明治12年まで存在したとのこと。
    ここは旧水戸街道と日光東往還の分岐点からほど近く、何らかの関連も想像されますが確証はありません。

    返信
    1. 柏市HPのは当然読んでおりますが、そもそも明治12年の太政官布告により廃止されたのは梟首(きょうしゅ:獄門) のみであり、斬首そのものはまだ無くなっておらず、市の記載はちょっと的外れだと思います。
      さて街道・宿場の警備も考えられますが、ここらは江戸時代には幕府による官営牧(馬の生産)が運営されていたので、山番的な仕事もあったかもしれません。

      返信
  3. 地元民

    皮革産業と聞いたことがあります。
    かつてはランドセル支給等があったそうです。
    色白で細目の方が多いかもしれません。

    返信
  4. 「石碑」について

    文中、昭和17年の石碑とありますが、画像を見ますと「皇紀二千六百年記念碑」と読めます。同年に設置されたものであれば、昭和15(1940)に建てられたものであるはずです。ご参考までに

    返信

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