消えた4億円!全日私幼連 前会長“花燃ゆ幼稚園”の 怪しい沿革

By 三品純

昨年、発覚した全日本私立幼稚園連合会前会長・香川敬氏らによる4億円超の不正出金問題。一時は新聞、報道バラエティ番組などでも多数、報じられたが続報を聞かない。香川氏をめぐっては過去、幼稚園理事長として注目されたことがあった。同氏が理事長を務める鞠生幼稚園(山口県防府市)は最古の仏教系私立幼稚園でなおかつ設立に幕末、維新後に活躍した楫取素彦かとりもとひこ、妻で吉田松陰の妹・楫取美和子(杉文)が参加したというのが通説。楫取夫妻はNHK大河ドラマ『花燃ゆ』(2015年)の題材になっており放映当時は同園も注目された。地元でも「花燃ゆの幼稚園」で通っていたが園史を調べると開園年、設立者ともに所説ある。同園は楫取素彦の関係が強調されているが沿革も何やら怪しいのだ。

幕末の志士ゆかりの地、防府市

高杉晋作が決起し長州藩の実権を握った「功山寺挙兵」。同藩の海軍局がある三田尻を急襲し軍艦を奪取する。鞠生幼稚園はその三田尻港近く。同園の設立に関わったという楫取素彦は長州藩校「明倫館」で講師を務めた他、吉田松陰投獄後は松下村塾で塾生の指導にあたった。市内には至るところに楫取素彦にちなんだ記念碑が設置されている。それから高杉を支えた勤王歌人、野村望東尼のむらもとにの終焉の地でもある。幕末マニアにとっては大変由緒ある町だ。

楫取素彦は藩の教育に尽力し維新後は明治政府に出仕し後に男爵。教育者としても功績があった楫取にちなんだ幼稚園というわけだから、大河ドラマの放映当時にも当然のことながら注目を集めた。

杉文が作ったわけではない。

同園の母体になるのは浄土真宗本願寺派明覚寺。開基したのは五十香川信盛という六万石の武将。応仁の乱で所領を失い山科に落ち本願寺の蓮如の弟子となり明西と号す。所縁があって三田尻で明覚寺を興した。地元の郷土史家によると同寺は最盛期は市内でも最も多い千件超の檀家を抱えたという。また「五十香川姓が五十香氏と香川氏に分家した。五十香氏はまた別の本願寺派の寺の住職です」と解説する。

明覚寺の本堂。

不正出金にまつわる報道が過熱した時にSNS上では「明覚寺は豪華」といった投稿が相次いだ。本堂をぜひ見学したいと申し出たが門徒限定ということだった。立派な寺ではあるが幕末の著名人の墓所であるとかそのような見所はない。「それにしてもあまり詳しい報道がないね」とは同寺の周辺住民。「私は本願寺派ではない別の檀家なんだが、うちの住職に東京のマスコミから“(香川氏について)何かご存知ないですか”と深夜に連絡があったから“ 地区も宗派も違うのに知るわけない”と怒ったそうだけど(笑)」(同前)。

4億円超の不正出金という異常な事件の割に意外と香川氏の“トレース ”が進んでいない気がした。

孤児院から幼稚園に改組した

そして話は鞠生幼稚園の沿革にうつる。同園は地元でブランド力を誇り「幼稚園としてはいち早く制服を取り入れた。裕福な保護者も多い」(地元住民)という。HPには園史をこう説明している。

明治25年、香川敬氏から4代前住職・香川黙識が楫取夫妻の協力を得て明治41年に現在の地に移転したというのである。

昭和3年に同園は旧防府町から表彰を受けているが同町議会の事績概要によれば

「本園ハ其初メ明治二十四年既二華浦幼稚園ナルモノヲ三田尻広小路二開キ、児童保育ノ事業ヲ創メラレタリ、是当園ノ前身ニシテ、其当時ハ現園長香川ノブヨ女史ニシテ、香川黙識外五名二依リ創立セラレタリ(中略)次テ明治四十一年十一月、男爵楫取素彦外数名ノ有志二依リ、幼児保育ノ必要ハ高唱セラレ、之等諸氏ノ発起二依リ、更二鞠生幼稚園ナル名称ノ下に再生シ来リ」

とある。「楫取夫妻が作った」と表現するメディアや地元住民もいたが創立者というよりも賛同人といったイメージだ。

事績概要では設立年は明治24年、同園HPには25年。わずか一年の違いを云々するのではなく設立者にも別説がある。『山口県佐波郡教育史』によれば元西浦小学校訓導(教員の役職)の渡辺又一が県下で最初の私立幼稚園である華浦幼稚園を三田尻の広小路に設立との記録だ。

それから幼稚園の経営にはもう少し紆余曲折がある。明治24年、25年設立がいずれにしても事績概要によると

「時世ノ未タ之二順応セサリシタメ」という事情があり閉園に追い込まれた。「時世ノ未タ」とは「当時、まだ貧しい子供も多い中で幼稚園は贅沢だという批判があったのです」(前出郷土史家)という意味である。

『防府市史』によるとしばらく市内で幼稚園の設立はみられなかったが、明治三十八年に大庭孫一が鞠生の佐波郡南部医会場(現在の医師会に相当するもの)を借用して孤児院を設けた。この設立年を『旧防府市史』は明治三十九年とするが「大庭孫一事績概要』では

小野村吏員タルコト五年、明治三十八年、地方二於テ未タ無告ノ孤児ヲ救済スル如キ社会的事業ノ甚タ微々タルノトキ、一朝感スル所アリ、私費ヲ投シテ一孤児院ヲ三田尻鞠生二創設ス。是、防府地方二於テ未タ曽テ見サル企ニシテ、又爾来未見ノ事業二属ス

との記載がある。その後で大庭孫一は楫取素彦らの協力を得て孤児院を幼稚園に改組。この時にできたのが「鞠生幼稚園」だ。明治四十年九月十八日に開園式を行い、翌年山口県知事から幼稚園の認可を受けた(『防長新聞』明治四〇年・九・二〇)。それから防府市史ではこの後、15年ほど経営の後、明覚寺住職・香川健爾(黙識の後継)に経営を譲ったとある。

いずれも設立には諸説あるようだが、明治25年の段階で楫取素彦が幼稚園の設立に参画したという根拠はどうも薄い。

幼児教育の歩みを考えるに明治25年、楫取素彦夫妻の協力とした方がドラマチックではあるが、しかし明治40年頃までの経緯は園HPでは明らかにされていない。HP上に掲載されている沿革の根拠は『幼児保育小辞典』(岡田正章)だが信頼性の意味では市史や郷土資料の方が有力ではないか。

郷土資料から読み取れるのは設立は明治40年、認可は41年、設立の中心人物は大庭孫一なのだがなぜこの説は採用しなかったのか。園のPRのために楫取素彦、美和子夫妻を強調する意図があったのか? 同園に質問したところ「責任者(香川氏)が不在のため回答できる者がいません」ということだ。

あるいは質問状を送付するので渡してほしい旨を告げたが「それも(質問状)難しいと思います」(同)と答えるに留まった。

同園のPRポイントとして最古の仏教系私立幼稚園が挙げられる。明治40年の創立となればまたそれ以前に設立された私立幼稚園があるかもしれないし、楫取素彦・美和子夫妻が設立したというイメージも異なる。いずれにしてもトップの香川敬氏のスキャンダルがあった以上、鞠生幼稚園のブランドも低下したのは否めないだろう。

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