本邦初!? 同和地区指定区域の図面が公開された(同和と在日2012 3)

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By 宮部 龍彦

鳥取ループ(取材・文) 月刊同和と在日2012年3月号
2012年1月、取材のために滋賀県草津くさつ市を訪れていたところ、驚くべき話を耳にした。というのは、ある住民が草津市役所に同和地区指定の根拠となる資料を情報公開請求したところ、その図面を市役所が公開したというのである。公開された図面は、「草津市 出自を理由に採用から排除した解放同盟と行政の「就職差別」」(同和と在日③)でも取り上げた西一にしいち地区(草津市西草津にしくさつ1丁目)のものだ。

本誌では長らく行政に同和地区の場所を公開させるにはどうすればよいかということを探求してきたが、それは予想以上にハードルが高いものであった。「鳥取市同和対策減免対象地域非公開の理由」で取り上げたとおり、情報公開請求ではなくて、個人情報開示請求によって「自分の家の場所は同和地区か?」という照会を行なっても開示されないことが明らかになっている。つまり、仮に当の同和地区の住民が個別に開示を求めても、正式な手続きでは開示してもらえないのである。

しかし、草津市の場合は「情報公開請求」に対して市が「公開」との判断を下したという。個別的な開示ではなく、文字通り公開したということなので、筆者が請求してもそれを見ることができるということだ。

早速、半信半疑で情報の真偽と、情報公開請求したい旨を草津市に問い合わせたところ、「あの資料ができた当時は情報公開制度を想定していなかったので、開示されるかどうかは分かりませんよ」という返事であった。もちろん、それで諦めるわけがない。早速情報公開請求の準備をしていると、別の職員から電話がかかってきて、こう言われてしまったので拍子抜けしてしまった。「あの資料なら情報公開請求は必要無いので、コピー代と郵送料を納付すれば送る」というのである。ということは、既に情報公開請求が行われていたということは本当だった。

資料の名称は「住みよい街づくりのために―地域改良事業のあゆみ 昭和63年3月」。草津市内で同和対策事業として行われた、小集落地区改良事業について説明した70ページほどの冊子であるという。西一地区以外の資料も含まれているということなので、それを全部情報公開請求してみるという手もあったが、早く現物を見たかったので、とりあえず既に公開されたという部分だけをコピーしてもらうことにした。

待つこと約2週間、ようやく到着した資料を一目見たところ、非常に貴重な資料であることが分かった。

これが噂の緑色の地区境界か?

問題の図面は「西一小集落地区改良事業 現況図」と題された、カラーの地図だ。「当初指定地区」として赤い線で区域が囲ってあり、さらに「追加地区(54年)」として赤い点線で過去ってある。そして「追加地区(57年)」として緑の点線が使われている。資料内の説明によれば、改良事業が始められたのが昭和49年。その直後に事業の範囲が線引され、昭和54年、昭和57年に2段階にわたって対象区域が広げられたと考えられる。

緑の線と言えば、思い出されたのが本誌で連載している「滋賀県同和行政バトル日記」において情報公開訴訟の対象になっている同和対策事業に関する地図である。滋賀県の説明によれば、その地図でも同和地区の境界は緑色で示されているという。ひょっとすると、滋賀県が持って地図はこれと同じものなのかも知れない。

ただ、この資料はあくまで「小集落地区改良事業」についての資料であって、この区域が同和地区であるとは直接書かれていない。小集落地区改良事業とは1970年に当時の建設省が定めた「小集落地区改良事業制度要綱」による事業のことである。これは同和対策事業が始まる前から存在していた「住宅地区改良法」による改良事業に準じた事業だが、ほとんどは同和対策として行われた。ちなみに、この制度は現在は「小規模住宅地区等改良事業」と名前を変え、最近では2004年の中越地震により被災した集落の再整備に活用された例があり、100%が同和対策というわけではない。

しかし、西一地区に関しては同和事業として行われたことが資料の中で説明されている。例えば次の部分だ。

当地域における開発は、地域住民の生活環境改善の要求が高まるにつれて、昭和44年から基本開発計画に従い、まず環境改善事業を中心として実施された。この事業による整備状況は別頁のとおりであるが、地域への満足な進入路もなかった状態であったため道路の新設・改修が主に行われた。また、河川・下排水路が特に不十分であり、氾濫はんらんしやすかったため改修が行われた。そして、環境改善事業と並行して、社会福祉の向上、産業の振興など総合的な同和施策が実施されていったのである。尚、本市は昭和40年代に入って京阪神のベッドタウンとして人口が急激に増えはじめたが、この余波は民間企業による宅地開発として当地域周辺にも及んでいった。これは、公共施設の不備から無秩序な開発を招く危険があったため、それに先だち計画性のある町づくりを推進する必要もあったのである。

そして、小集落地区改良事業が同和対策事業の期限に間に合わせるために、急いで進められたことが説明されている。

しかし、事業計画の決定そして地区内の買収着手までには、なお長い歳月を要した。市は、当初同和対策事業特別措置法が昭和53年を期限とする時限立法であったところから、事業を強力に推進していく必要に迫まられていたため昭和49年事業承認を待たずして、事業着手の発端となる地区外改良住宅建設用地を先行取得するに至った。ローリング方式による初年度整備区域の対象者の移転先を確保するためである。

この地図で指定された区域は、既存の住宅を動かして道路や公園を整備したり、改良住宅を作ったりした区域だ。大きさにして南北約100メートル、東西300メートル、広さにして3ヘクタールほどある。ただ、行政区画としての「草津市西草津1丁目」の3分の1程度で、隣保館である西一会館は指定区域の外にある。

資料には事業が始まる前の1970年8月の航空写真があるが、これを見ると草津川沿いに住宅が密集しており、周囲は田畑が広がっている。住宅の密度が高いことは航空写真からもうかがえるが、当時の集落内の写真によると、細い道が入り組んでいたことがわかる。これを整備するために住宅を除去して代替となる改良住宅を建設し、あるいは新しい宅地を造成した。

指定区域はこの当時の航空写真の住宅地域とほぼ一致しているので、そういった意味でこの図はいわゆる「被差別部落」の区域におおよそ一致していると見て間違いないであろう。事業の対象が大雑把な行政区画ではなく、まさに「集落」部分であったことが分かる。

現在の地図、航空写真と重ねてみると、集落は指定区域の外に大きくはみ出しており、一般的な意味での「西一集落」と「被差別部落」が一致していないことが分かる。改良事業による区画整理にともなって、旧集落の外にも改良住宅が建設され、また持ち家のための宅地が造成され、他の地域からの転入もあったからだ。ちなみに、現在の指定区域内には賃貸住宅(ハイツじゅえる)もあり、属地という考え方で言えば「同和地区住民」になることは難しくはなさそうだ。

ただ、実際のところ固定資産税の減免などの同和施策は「属地属人主義」であるため、区域内によそから引っ越してきても対象にはならない。また、施策の対象としての「属地」は事実上行政区画全体に広がっており、古くからの西一集落住民の子孫であれば指定地区外でも施策を受けられるのが実情だ。

そして、地図だけではなく「資金計画」という資料も含まれている。それによれば、当時81戸だった集落に投じられた予算は20億21万5000円。1戸あたりになおすと2469万4000円なので、大変な額だ。しかもそのうち約60%は国と県の補助金で、残りもほとんどは市債だ。草津市の一般財源から出されたのは8.36%、1億6727万8000円に過ぎない。

市にしてみれば、同和対策であれば実際に支出する予算の10倍以上の規模の公共事業を行うことができたのである。当時、これをやらない手はなかっただろう。たとえ「差別される地域」と公的に認定されてしまうとしても、次々と手を挙げる地域があったのもうなずける。対象地区のみならず、周辺地域への経済効果も相当なものだっただろう。

徐々にこじ開けられた戸口

草津市では一昨年から「同和対策施策見直し検討委員会」が開かれ、同和施策について議論が行われていた。委員会で配布された資料が市のサイトにアップロードされているのだが、地区名が伏字にされている。とは言え、地区ごとの現況について書かれた資料には人口や地区の状況が詳細に書かれており、隣保館の設置場所と行政が指定した同和地区がほぼ一致しているという滋賀県の事情もあって、容易に地区名が特定され、ほとんど伏字にする意味がない状態だった。実際、委員会の傍聴に訪れた市民に、会議の後に回収するという前提で配布された資料には地区名がそのまま書かれていたという。

市役所に度々情報公開請求を行なっている住民によると、去年あたりからは解放同盟の支部交渉の資料について、支部名はもちろん、地区名もそのまま公開されるようになっていたという。そして、ついには草津市内の4つの同和地区(新田しんでん橋岡はしおか芦浦あしうら、西一)について説明した「隣保館等の概要と地区の状況について」という資料が、草津市のウェブサイトにそのまま掲載されるようになった。

で、今年公開されたのが西一地区の同和地区の図面というわけだ。

確かに草津市では4つの地区の存在があまりに有名すぎて、最初から隠す意味はなかったのだが、「同和地区問い合わせは差別」という解放同盟や行政の見解があって建前は非公開だった。しかし、同和対策施策の見直しが始まったのを契機に市民からオープンな議論を望む声があり、資料が公開されていった。

最初は一応地区名が隠してあるけど、見る人が見れば丸わかりな資料を公開してみた。しかし、解放同盟からそのことについてクレームはなかった。そこで、試しに地区名を伏字にするのをやめてみた。それでも、何の問題も起こらない。「俺らスゲー! じゃあこれも」ということで出てきたのが西一の図面であろう。まさに戸口に足を差し込み、次は手を入れ、どんどんこじ開けていったという感じだ。この過程については今後も検証していきたいところであるが、「同和はタブー」という感覚が、よい意味で麻痺まひしていったのであろう。無論、本誌としては歓迎すべきことだ。

同和対策というと、いわゆる「逆差別」や「ねたみ意識」といったことがどこでも問題もされる。その原因の1つは同和地区に対する優遇施策であることはもちろんだが、それがあまりにも不透明であるために尾ひれがついて広まってしまい、正確な情報を伝えたり、事業の必要性について説明する努力がされないということがある。「差別があった、環境が悪かった」と抽象的な説明はされるものの、実際の地区の状況や、かかった予算など、個別具体的な説明がなされることはめったにない。

人は分からないものに対して恐怖をいだく。しかし、分かればその恐怖は取り除かれるか、残っても限定的なものだ。少なくとも尾ひれがついて限りなくふくらんでいくことはない。もっとも、公開された資料に見ることができる事業の規模と予算は、尾ひれがつかなくても十分に驚くべきものだ。

滋賀県立図書館で利用制限がかけられている歴史資料「滋賀の部落」によれば、西一地区はかつて「留守川るすかわ村」と呼ばれ、藍染あいぞめ産業の村と記されている。特筆すべきことは、留守川村は経済的には豊かだったことで、明治21年の国税負担額が1戸あたり6円55銭で、滋賀県下67部落中1位だったという。当時の税率は3%くらいと言われているので、逆算すると月あたりの収入は18円ほど。これは当時の小学校教員の平均月給くらいの額で、村全体で見れば決して困窮していたとは言えない。そのような地域にあれほどの予算を投ずる必要があったのか、検証されるべきだろう。

そしてにしても、筆者は行政に対して同和地区の場所の公開を求める度に、「事務事業に支障が出る」「差別や偏見を助長する」さらには「人の生命に関わる」といった理由でこばまれてきた。そう言ってきた人たちに、この資料を見た感想を聞いてみたいものである。(鳥)

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。