『三重県部落史料集 近代篇』に掲載された「壬申戸籍調査集計表」では佐田村の古村の戸数は48、同資料の「管内◯◯部落と其人口」によれば上御糸村に2つの古村があり、合わせて70戸とされている。
後者の資料では「部落名」として南野、東組と書かれているが、東組が下尾のことであろう。そして今回訪れたのが南野だ。現在も、国土地理院地図で南野の小字を確認できるが、村としては佐田と馬之上の境界をまたがっている。
古村の名を現地に留めるのがこの南野公園。
そして、目についたのがこのニコイチ群。
何の変哲もないニコイチと最初は思ったが、何かが違う。おわかり頂けるだろうか?
こちらのニコイチは見るからに空き家になっている。それだけではない、前出の写真との違いが分かるだろうか?
筆者はこれらを見て、今まさに改良住宅を払い下げている最中だと確信した。ベランダに注目してほしい。ニコイチと言うからには、1棟で2戸なのである。アパートと同じくベランダには仕切りがある。その仕切りがあるものとないものがある。
ニコイチを払い下げる時は、1つの建物を2人に譲渡はできないので、2つの建物に分離する工事が行われる。しかし、このニコイチは構造上分離は難しそうだ。この場合、内部の壁をぶち抜いて、2戸を1戸にするという方法がある。実際、このような方法もあると奈良県で聞いたことがある。
後で調べると、全く筆者の確信の通りだった。令和3年明和町公共施設個別管理計画によれば、南野小集落改良住宅について、現居住人への譲渡を進めているとある。30戸の改良住宅はまさにその作業の真っ最中である。町議会の会議録を見ると、不動産鑑定士云々というようなことが書かれているので、さすがに無償ではなく、時価で払い下げているのだろう。
ここも明和町の他の古村と同様、比較的大きな家が多い。ニコイチの片方だけでは手狭なので、1棟ごと払い下げというのはよい方法だろう。
ここでも、戦前には佐田南野水平社が結成されていた。
民家の脇に倒れている石柱が気になった。これは近世以前の道標ではないだろうか?「右 さんくう道」と書かれている。これは伊勢神宮へ向かう参宮道、すなわち伊勢街道のことではないか?
この村は伊勢街道からは離れている。おそらくさきほどの道標は、どこかの分かれ道に、伊勢街道へ向かう方向を示すために建てられていたものだろう。
近世以前は穢多村で、斃牛馬の処理権を持っていたとされる。伊勢街道で斃れた馬もこの村が処理していたのであろう。塚本明『近世伊勢神宮直轄領の被差別民について』によれば、隣の斎宮村と処理権を巡って争ったことがあった。
このような古村にある商店は、大抵廃墟になっているものだが、ここはそうではないように見える。グーグルマップでは閉業となっているが、自動販売機は動いている。看板に「刀剣類、火縄銃」とあるのが気になる。
ゴミ捨て場の横に「山神」がある。前評判では、ここに教育集会所があると聞いていた。
しかし、倉庫のような建物があるだけだ。これが教育集会所なのか?
調べてみると、この駐車場が教育集会所の跡地である。それなりに立派な建物があったのだが、今はなぜか岩が置かれている。同和だの、人権だの、SDGsだのといった掲示物もなかった。
さきほどのニコイチの払下げが終わり、老朽化して立て直しが進めば、形跡は消えていくことだろう。