J・マーク・ラムザイヤー教授 『日本の 被差別民政策と 組織犯罪:同和対策事業 終結の影響』②

By 宮部 龍彦

Outcaste Politics and Organized Crime in Japan: The Effect of Terminating Ethnic Subsidies の日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと

前回は部落について論じたが、今回は犯罪組織すなわち暴力団、そして部落と暴力団の関係を論じている。ラムザイヤー教授は、様々なデータから部落における暴力団構成員の比率を推計し、それが異常に高いことを指摘している。そして、同和事業が部落民が暴力団に入る動機づけとなり、部落に関係した犯罪や不正がはびこり、それによって部落内外の婚姻や雇用が阻害されたという仮説を立てている。

II. 部落民と犯罪組織

B. 犯罪組織

2014年の時点で、日本の警察は、より小さな下部組織の最大の連合体である21の暴力団組織を数えた。構成員と準構成員の70%以上が、3つの最大組織を占めている。最も大きいのは何十年もの間、悪名を轟かせている山口組だった。警察の記録によると、2015年に分裂するまで、山口組は総暴力団員の40%以上を支配していた(警察白書2013:図3-13; 2015:2–3、暴力状勢2009:6)。

暴力団の構成員は、一般人よりもより多くの犯罪に関与していた。警察は2014年に22,000人の構成員と準構成員を逮捕した。そのうち5,000人は覚せい剤関連の犯罪で逮捕された(覚せい剤関連が逮捕全体の55%)。その年にゆすり(脅迫と恐喝)で逮捕された5,200人のうち、1,700人が暴力団出身である(警察白書2015:4、付録表1、2–4)。

ミルハウプトとウエスト(2000、ヒル2003を参照)は、政府の政策が機能不全となるとき、暴力団が解決のために実際に役立つ具体的事例いくつか挙げている。たとえば、日本の借地借家法は、大家による入居者の退去を禁止しているが、暴力団は入居者に退去するよう説得するのに役立つ。破産法は暴力団の介入を助長する非効率性を持ち合わせている。暴力団はしばしば政策の不備からの救済をする。しかしながら、それらが実行されるにあたっての暴力的で略奪的な性質から目をそらしてはいけない。

C. 二つのグループの結びつき

1. 部落と暴力団

同和対策事業の期間中、犯罪組織は部落の重要な部分を構成した<注16:この効果は、部落民と部落解放同盟に関する英語の文献ではほとんど完全に見落とされているようだ。たとえば、筒井(近日公開)を参照のこと。ハンキンス(2014)、ベイリス(2013)、ボンディ(2015)、マクラフリン(2003)、ニアリー(2010)、アップハム(1980、1984)。>。ジャーナリストの角岡伸彦(2012:28)は、彼自身が兵庫県の部落の出身であり、この分野では最も鋭敏でバランスの取れた作家である<注17:部落解放同盟に批判的であることが多いが、角岡は部落民の知的リーダーシップの一部であり続けている。彼は明らかに、部落解放同盟の研究集会に貢献するよう招待されるのに十分な人望を、部落解放同盟自体の中で保持している。角岡(2004)を参照のこと。>。彼は何度も次のように注記している。「マイノリティグループの大多数はまじめな生活を送っていますが、犯罪組織の構成員のほとんどは確かに韓国・朝鮮人や部落民のようなマイノリティのメンバーです。」

爆弾発言のように聞こえるかもしれないが、角岡の発言と同じく、部落住民、暴力団員、警察は、部落民が暴力団の大部分を占めていると一貫して報告している。福岡に本拠を置く工藤會の幹部(2017年現在、日本の暴力団の中で最も暴力的)は、組織の構成員の70%が部落民または韓国人であるとドキュメンタリーで述べている<注18:右記を参照。 http://blog.livedoor.jp/takeru25-6911/archives/2057059.html>。角岡自身は、京都を拠点とする暴力団会津小鉄会の首領を引用し、1996年の時点で1,300人の構成員のうち半分が部落出身であると推定している(角岡2005:82–83、2009:115)。部落民の詩人・植松安太郎(1977:166–67)は、山口組の70%が部落民であると述べた。部落民ジャーナリストの宮崎学(宮崎と大谷(2000:162)は、暴力団の90%が「マイノリティ」(部落民と韓国人)であると書いている<注19:ランキン(2012)は、宮崎を「状況をよく知っている」人物と表現しているが、暴力団が圧倒的に「マイノリティ」で構成されているという宮崎の発言を見逃しているようだ。>。警察はこれらの推測を認めている。1986年に、2人のアメリカ人ジャーナリストは、警察が彼らに山口組の70%は部落民だと話したと報告している<注20:カプランとデュブロ(1986:145)。この2人の著者の日本語版ウィキペディアの記述は、おそらく出版社が部落解放同盟からの攻撃を恐れていたために、議論が日本語の翻訳から削除されたと述べている。>。2006年、元公安調査庁の職員は外国人記者クラブに60%という数字を述べた<注21:菅沼光弘による講演。2014年、講義は右のURLで利用可能。http://www.youtube.com/watch?-v5wNAJVnjlR2gその後、名目上「著作権」の懸念から削除されたが、2016年の時点でYouTubeの他の場所で引き続き利用可能であった。この声明は、山口組の上級メンバーからのものである。ランキン(2012)は、菅沼の説明を「不快なほのめかし」として却下したが、明らかに(上記の注20で宮崎を称賛したことを考えると)、部落の部落支配に関する宮崎の発言を見逃している。>。

部落民と暴力団の関係のとりわけ不幸な実例は、九州北部の小さな町の話だ(訳注:大任町のこと)。部落解放同盟(野口 1997:31)によると、この町は国内で2番目に部落民の集中度が高く、住民の61%が部落に住んでいる。日本の他の地域の人々はこの町を「暴力団の町」と呼んでいる。インターネットでは、様々な人々がそこに近づかないように警告している。1986年、町長室で町長が何者かに撃たれた。2002年にも町議会議長をが何者かに撃たれた。2003年、警察は武器容疑でその町議会議長を逮捕した。同じ年の後半、警察は車の窃盗に関与したとして代わりの議長を逮捕した。2005年、町長は自分の事務所に火炎瓶が投げ込まれているのを見つけた<注22:例えば右記を参照。福岡の黄金 (2005)、暴力団の町 (2011)、乗っ取られた町 (2015)。>。

部落民と犯罪組織の結びつきの最も厄介な側面は、扇動的であるため学術的な説明では決して言及されないが、部落民の男性が暴力団に加わることを選択した割合にある。同和対策事業の数年間におけるその割合の大きさは、若い才能の莫大な転用、合法的な生活から犯罪行為への根本的な転換を示している。割合の下限を計算するために、部落民が暴力団の半分だけを構成し、180万人の部落民の総人口からランダムに採用された犯罪組織を想定する。1980年代後半の暴力団の最盛期においては、警察は20代の23,000人の男性と30代の27,000人の男性が暴力団関係者であったと報告した(警察白書1989)。部落民の年齢構成が一般人口と同じだとした場合<注23:実際は、1993年の政府調査によると、部落民は一般の人々よりも年齢が高かった。指定同和地区に住む部落民のうち、65歳以上が15.5%だった。日本の一般人口では、65歳以上は13.5%であった。内閣(1995)を参照のこと。>、20代の部落民男性の9.4%、30代の部落民男性の11.1%がそれぞれ暴力団関係者だったことになる。

それらが下限である。次に上限を計算するために、暴力団の70%が部落から来たと仮定する。さらに、一般人口に溶け込んだ70万人の部落民は暴力団関係者にならず、代わりに同和事業の対象となることを選択した部落に住む110万人からのみ暴力団関係者になったと仮定する。同じ計算によると、これらの指定されたコミュニティの20~29歳の部落民男性の21.4%が暴力団の一部であり、30代の男性の25.2%である。穏健な部落民ジャーナリスト角岡(2012:20)が述べたように、「長い間、部落は暴力団の温床であった」。

結果として生じた偏見は自己補強的なものであった。反社会的行動(暴力団への参加など)に加わることを選択した者がグループのごく一部のみであったとしても、それらの行動を取っている人々は異常な反社会的傾向を示していることになる。一方、多数が反社会的である場合は、とにかく犯罪的であると部外者が偏見を持つことが合理的になるため、ある人が捕まえられなくても、とにかく犯罪者と見なされてしまう。そして、こうして生まれた差別は、有罪歴と比較して、無罪歴の価値を低下させる。すなわち、グループ内の人間が、たとえその人自身が非の打ちどころのない行動をとったとしても、疑惑に直面することになる(ラスムセン1996)。特定の地域で多くの人間が犯罪に関与している場合、すべての人間が疑われる。これにより、実際に犯罪が表面化した人間の評価の低下は相対的に小さなものとなる。他の人々がその地域の全員を疑うことが合理的になるので、自己補強による悪循環が続くことになる。

2.部落解放同盟

部落解放同盟の起源は、松本治一郎が率いる戦前の過激な部落組織である水平社にまでさかのぼる。松本は福岡で土建屋を経営して収益を上げていた。彼は、ライバルが危険を冒してまで立ち向かう男として評判を高め、鉄道建設の市場をしっかりと掌握し続けた。少なくとも部分的には、この評判は暴力を背景としていた。ライバル会社が彼の収益を脅かしたとき、彼の従業員はその会社のオーナーを誘拐して殴り殺した(一ノ宮とグループK21 2012:22–24、54–58; 鳥取ループと三品2010、ニアリー2010)。

水平社では暴力が繰り返され、後継組織の部落解放同盟でも残虐行為のエピソードが受け継がれた。紛争は部落民のコミュニティを分裂させた。あるエリートの部落民一族は、地域福祉の改善に取り組むグループの中核を形成した(ドナヒュー1967:150–51)。1960年代、彼らは解放同盟の暴力的な戦術に最も悩まされていた部落民であった(コーネル1967:160、175)。ジョン・コーネル(1967:174)によると、部落の「よくある不満」は、部落解放同盟が「暴力に過度に頼りすぎる」というものであった。部落民の指導者たちは、「「部落解放同盟」の非常に攻撃的な態度は、敵意を全面に出して蒸し返すことで差別を強める傾向がある」と懸念した。

部落解放同盟の指導者自身が非常に多様な動機を持っていた。角岡(2009:313)は、1980年代に部落解放同盟支部への加盟を申し込んだ時を思い出し、現在の部落解放同盟幹部との会話について語っている。彼が部落解放同盟の指導者に尋ねたところ、次のように答えた。

「あなたを支部にご案内します。あなたの要求は何ですか?」
「「要求」とはどういう意味ですか?」申請者は尋ねた。
「住宅、仕事、税金。」 部落解放同盟の指導者は続けた。「たくさんのことがあるでしょ?」
「私には家があります」と申請者は答えた。「そして私には仕事もあります。」
「では、なぜ支部に参加したいのですか?」
「私は解放のために働きたいからです。」
「え? 今?」リーダーはいぶかしげに答えた。

この話は、同和事業時代の部落解放同盟の2つの異なるグループを示している。理想主義者と知識人は、統計を集め、本を書き、外国の学者を訪問して解放同盟の役割を説明した。暴力団に所属する事業家は、私的利益のために同和対策事業を利用した。「そのような時代があった」と穏健な部落民ジャーナリストの角岡(2012:53–54)は、「歴史的な反差別グループ(すなわち部落解放同盟)が現在または以前の暴力団構成員の重要な地位を占めていたとき」と回想した。結局のところ、彼はこう続けた。部落解放同盟員が「暴力団の」現役または元構成員であるのは珍しいことではなかった。差別に対する怒りから、荊冠(部落解放同盟シンボル)の下で闘いに邁進した人もいた。他の人々は、(同特法資金による)部落における事業を通じて、私財を作る企みのために邁進した。

3. 暴力

現代における部落解放同盟の暴力的な風評の一部は、日本共産党(JCP)との残忍な決別に起因している。1969年の特措法の制定と同時に、部落解放同盟は共産党と分裂した。解放同盟は長い間日本社会党と日本共産党の両方と結びついていたが、1960年代後半に共産党とは決定的に決裂した。欧米の学者は、一般的にイデオロギー的な理由で分裂したという主張を受け入れている。アップハム(1980)が述べたように、日本共産党は、「部落の解放は、抑圧されたすべての日本人を解放する日本社会の変革によってのみ完全に達成できる」と主張した。対照的に、部落解放同盟は、「差別は日本社会に蔓延しており、労働者階級の人々と共産党自体の間に存在している」と主張した<注24:ニアリー(1997:67)も参照のこと。部落民の「マルクス主義的立場」の詳細については、ライル(1979)を参照。>。

共産主義者ら自身は、紛争を日本共産党の内部抗争が原因と考えていた。中華人民共和国が1960年代に国際共産主義運動の主導権をめぐってソビエト連邦と決裂したとき、日本共産党もそのようにした。ある派閥はソビエト連邦に忠実であり、ソビエト連邦から資金を受け取っていたが、中国を支持した派閥が勝利した。部落解放同盟の指導者たちはソ連派と結びついていたが、ソ連派と共に共産党から追放されたことを知った。そして解放同盟は共産党員を追放することで報復した<注25:一ノ宮とグループK21 (2013:19, 263, 282)、右記もまた参照のこと。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2007-01-04/ 2007010426_01_0.html>。

しかし、部落解放同盟と日本共産党は、イデオロギーやソ連と中国の分裂以上に対立する要因があった。同和対策特措法による資金が危機に瀕していた。日本共産党の正統性を拒否するにあたり、部落解放同盟の指導者たちは、ライバルである彼らが同和事業に関係することを禁じた。それらの制約を実効力のあるものにするため、解放同盟は数百にのぼる強力な団体を組織した。これらの団体を運営するために、解放同盟はそれぞれ別の役割を持つ2人の人間を立てた。すなわち部落解放同盟支部長と暴力団構成員である<注26:森 (2009:33)、角岡 (2009:268–69; 2012:52)、一ノ宮とグループK21 (2013:96–97)。>。

部落解放同盟は日本共産党支持者に大きな打撃を与えた。解放同盟は婉曲的に彼らの戦術を「糾弾会」(きゅうだんかい)と呼んだ。関西で最もよく知られているのは、1969年4月の大阪市近郊の矢田での日本共産党関係教師への攻撃である。共産党員である中学校教師は、部落関連の余計な仕事について不平を言っていた。部落解放同盟は彼を「差別者」(さべつしゃ)と宣言し、彼と他の日本共産党教師を地元のコミュニティホール(訳注:解放会館)に引きずり込んだ。そこで、解放同盟は部落民200人の前で12時間以上にわたって教師らを糾弾した<注27:右記参照。日本(原告)対[当事者省略](被告)(訳注:刑事裁判なので原告に相当するのは検察)、782判例時報22(1975年6月3日大阪地裁)(不法逮捕の部落解放同盟指導者の無罪判決)、改訂、996判例時報34(大阪高裁1981年3月10日)を参照;木下(原告)対大阪(被告)、693判例時報111(1979年10月30日大阪地裁)(大阪市に対し糾弾された教師の損害賠償を命じる);フランク・アップハムによる翻訳。3つの意見すべてはミルハウプト他で参照できる (2012)。>。

八鹿(ようか)では日本共産党教師に対して部落解放同盟はさらに暴力的だった。日本共産党は残忍な攻撃が行われたと報告した。共産党の新聞の正確さは疑わしいものの<注28:この事件はニュースメディアで十分に報道されていなかった。数年後、部落民作家の上原(2014:3章)が八鹿(ようか)を訪れ、関係者と話をした。彼は広範囲にわたる暴力の報告を裏付けている。事件に関する司法意見については、右記参照。日本(原告)対丸尾(被告)(訳注:刑事訴訟)、523判例時報109(神戸地裁1983年12月14日)(部落解放同盟指導者の逮捕監禁への有罪宣告)、控訴棄却1309判例時報43(大阪高裁1988年3月29日)控訴棄却(最高裁1990年11月28日); [名前なし]、1350判例時報 107(神戸地裁1990年3月28日);森本(原告)対[名前なし](被告)、1273判例時報38(1987年9月28日神戸地裁)、控訴棄却、696判例時報100(大阪地裁1989年2月15日)。>、スタンフォード大学の人類学者トーマスローレン(1976:685–86)は現地調査を行っており、彼は次のように報告している。

学校の中では殴打が執拗に続いた。… ある教師は火のついたタバコで火傷を負い、また別の教師は彼の手と足を持ち上げられて、床に繰り返し落とされた。…暴力は夜まで続いた。… その朝学校を離れた52人の教師のうち、12人は肋骨、椎骨、または脛骨が折れた状態であり、複数の教師は多重骨折を負った。今述べた12人を含む13人は、少なくとも6週間の入院を必要とした。さらに5人が1か月、15人が2~3週間、さらに15人が1週間以上入院した。

4.「窓口一本化」主義

部落解放同盟の指導者たちは、特措法による同和対策事業を独占的に管理しようとした。彼らの言うところの「窓口一本化」主義を求めた。すなわち、すべての資金はただ1つの窓口を通して到達し、その窓口は解放同盟が管理した。

部落解放同盟の指導者たちは、最初に大阪府吹田市に窓口一本化主義を強制した。1969年6月、彼らは吹田市当局にこの政策を受け入れるよう要求した。市役所が難色を示すと、彼らは300人の部落解放同盟員を送りこんだ。ある部落解放同盟評論家の報告によれば(その報告が正しいか確認はできないが)、彼らは3日間にわたって市長の家を囲み、一晩中ドラムを叩いた。さらに市長の家のガス、水と電話回線を切った。市長の家の壁をよじ登り、中の敷地におりたった。最終的に、市長は黙認することになった(中原1988:128–29、一ノ宮&グループK21 2013:270)。

部落解放同盟は都市から都市へと移動した。て(繰り返しになるが評論家によると)必要に応じて、その戦術を繰り返した。たとえば、羽曳野市(大阪府)と対峙したとき、部落解放同盟員は市役所を122時間占拠し、市長を22時間監禁した(中原1988:128–29;一ノ宮&グループK21 2013:96–97、270 )。彼らはどこでも支配権を獲得できるわけではなかったし、もし訴訟を起こされたら法廷で敗北する可能性もあった<注29:例えば、前田(原告)対西脇市(被告)、887 判例時報 66 (神戸地裁1977年12月19日)、福岡市(原告)対松岡(被告)、870判例時報61 (福岡高裁1977年9月13日); 概要はアップハム (1980:54–62)を参照のこと。>。やがて、ほとんど(すべてではない)の都市が窓口一本化主義を取りやめたが、部落解放同盟は支配権を要求し続けた。

初期の窓口一本化主義を例にとると、ある部落が同和対策事業を受けたい場合、部落解放同盟支部事務所を必要とした。あたり前のことであるが、お金が関わるとなると、以前は消極的だった全国の部落で急いで支部が設立された。やがて、部落解放同盟の会員数は20万人を超えた(角岡2012:36、65、304、小林2015:12)。

5. 予測可能な結果

a. 部落内外の結婚

同和事業資金により動かされ、組織犯罪や暴力にまみれた組織から、いくつかの結果が生じた。明らかにこの組織は、引き続き多くの一般の日本人が子供を部落民と結婚させることに消極的であることを助長させた。現代のほとんどの日本人は、義理の息子や娘となる人を個人として評価する。その人の祖父が肉屋として働いていたかどうかといったことは気にしない。しかし、子供が組織犯罪と関係する家族と結婚することは、気が気でない。

b. 雇用

同様の理由で、一般の雇用主の一部は部落からの応募者の採用を避け続けた。雇用主は、正直で一生懸命働き、会社の目標を推進するために必要に応じて意見の交換ができる従業員を求めている。多くの(おそらくほとんどの)企業は、潜在的な応募者を個人として評価する。そうでない人々は、恐喝と暴力団で知られる部落の背景を、許容できないリスクと見なすであろう。

部落解放同盟が会社を「差別的」と認定することを決定したとき、企業が誠意を示さない限り、部落解放同盟は「糾弾」会を迫った。誠意を示す最も簡単な方法はお金を払うことだった。1975年、部落解放同盟は、伝統的な部落の場所を特定する本を購入した企業を攻撃した。解放同盟に対して最も厳しい評論家によると、その後、攻撃したばかりの企業からの「寄付」を通じて、資金を供給する政治部門を形成した。「寄付」の範囲は、リッカーミシン(訳注:1984年に倒産したミシンメーカーのリッカー株式会社)の10万円から三菱不動産の300万円まで幅広かった(寺園他2004:298–99)。

その評論家によれば、この慣行は一般化された。解放同盟が大阪の企業を「差別」と非難したとき、ある評論家の報告では、企業は「研究会」に参加することで「糾弾」会を回避することができた。その研究会は無料ではない。別の部落解放同盟評論家によれば、同盟は、従業員数101~500人の企業の場合、年間19万円から、従業員数3,001人以上の企業の場合は、年間23万円まで、と段階的な金額を請求した(鳥取ループ2011:60)。

c.沈黙

当然のことながら、一般のジャーナリストは部落について何か言うことを躊躇する。部落解放同盟は定期的にメディアの報道を「差別的」と認定し、糾弾している。ここでは数あるのエピソードのうち2つを紹介する。1981年、東京大学出版局はマーガレット・ミードの本の日本語訳を出版した。その中で彼女は、伝統的ではあるが蔑称的で、ポリティカル・コレクトネスに反した言葉を穢多非人に使用した。出版社は本を回収したが、部落解放同盟はとにかく圧力をかけ続けた(小林2015:74–75)。1982年、東京大学の体験型講座において、ある教授(訳注:有賀弘のこと)が、「東日本には部落問題はない」と主張した。「それは西日本での問題だ」と教授は説明し、「しかも、部落民予算(同和対策特措法)をめぐる部落解放同盟と日本共産党の間の金銭的対立である」と彼は説明した。これらの発言に対して、部落解放同盟は教授を「糾弾」にさらした(小林2015:76–77)。暴力的な脅しをギリギリで偽装したこれらの「糾弾」は、部落研究の分野全体を高リスクにした。ほとんどの学者は部落研究から遠ざかることになった。

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宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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